小説
十六話



 北島渚は幸せになりたい。
 北島渚は兄と幸せになりたい。
 北島渚は理解できない。

「ねえ、双子の弟から兄を奪うってどんな気持ち?」

 流宇はなにも言わない。言えるわけがない。彼は声を持たない。
 分かっていながら、渚は勝手に話を続ける。

「あんたの目も、優くんの目も、あのくそ女を見る兄さんの目とそっくりだった。だから分かるわ……でも、ねえ、どうして? どうしてそんなことが許されるの?」

 何処かで生徒たちの賑やかな声がして、やがて遠ざかる。文化祭の準備に区切りをつけて帰るところなのかもしれない。
 総括室のほうへ向かう流宇を呼び止めた渚は空き教室へと流宇を案内した。渚自身は不思議にも思っていないが、普通であればついてこようなどと思わないだろう。

「あんたみたいなのがいるから、アタシは兄さんに愛してもらえないの。
 あんたがいるから……美由は不幸なのよ」

 そうよ、と渚は顔を歪ませる。

「美由が可哀想じゃないわけない。アタシと違って兄さんに近づくくそったれを排除できなくて、目の前であんたと優くんが一緒にいるのを見ていなきゃならなくて、そんなの可哀想じゃない。可哀想。可哀想よ。アタシより可哀想!!」

 なのに、と渚は流宇に掴みかかった。
 胸ぐらを掴み、がくがくと揺さぶりながら訴える様は駄々をこねるこどもにそっくりで、じわりと緩んだ包帯に滲んだ血を気にもしない様は狂人のようで。
 しかし、流宇の烟ったい色をした目は静かに渚を見下ろすのだ。

「っやめて! やめてよ……なんで? なんでアタシがそんな目で見られるの? 違うわ……アタシは可哀想なんかじゃない!!」

 張り裂けるように矛盾を叫び、渚の両手が流宇の首へかかろうとしたとき。
 流宇が渚の手を払いのけようとしたとき。
 空き教室のドアが、開いた。



 美由が総括室から寮へ戻っている途中、酷く焦った様子の知鈴を見かけた。
 文化祭が近づき生徒も浮足立っている。興奮のまま喧嘩に突入するものがいてもおかしくない。それで風紀委員が呼び出しを受けてもおかしくはない。あるいはもっと別の深刻であったり単純であったりする問題かもしれない。
 でも、美由の勘は鋭く働いた。

「黒川知鈴」
「っげ!」

 声をかければあからさまに会いたくなかったという顔をする知鈴に、美由の勘は確信を深めていく。

「幼馴染にご挨拶ね……訊きたいことがあるのだけど」
「生憎そんな暇なくてな。また今度な、今度!」

 早口で言うなり黒飴を押し付けて去ろうとする知鈴の手を、美由は黒飴ごと握りしめた。
 ぎり、と骨の軋む音。

「ってえ! やめろ、馬鹿力ッ」
「答えなさい。兄さんが関わってるわね?」
「お前のブラコンセンサーなんなのっ?」

 美由は知鈴の手を離す。床にかつん、と音を立てて黒飴が落ちた。

「やっぱりね。でも、兄さんにはさっき会ったばかりだわ。なら……」
「おい、おい、お前は一般生徒だからな? 温順しくしてろよ?」
「あなたが探さなきゃいけないような目に遭っているのは──あのクソ犬ね……?」
「お前……立花を犬呼ばわりすんのやめろよ。俺が複雑だから」

 全てを諦めたように言外に肯定する知鈴を無視して、美由は歩きだす。
 知鈴は「万が一」のために並んで歩きだしたが、すぐに別の道を指さされる。

「効率の問題よ、あなたはそっちへ行きなさい」
「……へえへえ、分かりましたよ。なにかあれば優にしこたま怒られんぞ」
「あなたじゃあるまいし。兄さんは……怒ってもくれないわ」

 一瞬伏せた目は、すぐに力強く前を向く。前だけを。決して後ろも横も振り向かない。
 知鈴を置き去りに歩きだした美由は要へ「人払い」の連絡を入れる。大事にするべきではない予感がした。でも、態々知鈴が、一般の風紀員ではなく風紀委員長の知鈴が動いているのであれば、大事になるような事態も覚悟しなくては……いいや、既に覚悟しているのかもしれない。
 美由はそれが不快だ。
 優にはなにも背負ってほしくない。
 織部という家をとうに背負っていながらなにを、と思うが、そんなものを優は重いとも思っていない。
 美由はただ、優に影を落とすようななにもかもが嫌だった。
 そんなものは全部。
 ──聞こえた声。
 金切り声にも近い喚き声。
 早足で近づけば、それが渚のものだと分かる。
 やはり、と思う気持ちは強い。いま、この時期に流宇へ厄介事が降りかかるとしたら渚以外にないだろう。
 空き教室から聞こえる喚き声の内容は不愉快で、それを閉ざすように、美由はドアへ手をかけた。

「煩いわよ。クソ犬に絡むのはやめ…………」

 眼の前の光景。
 面倒臭そうな顔で視線を上げた美由が渚を見て、流宇を見て、渚の手元を見て、流宇の首元を見る。
 沈黙。
 美由の首がかくん、と横倒しになる。

「っひ!」

 悲鳴を上げた渚が流宇から飛び退りながら、それでも美由を見つめる。目が離せないというように、震えながら。
 美由は青い目を爛々に輝かせ、きらきらと瞬かせ、小さく小さく一点に凝固させたような殺意を灯して、渚を凝視していた。
 もはやその眼差しは常人のものではなく、渚が流宇に見せた狂乱も生ぬるい狂人のものでしかなく。
 っは、と息を切り、流宇が美由のもとへ駆け出す。
 両肩を掴み、声なき声で必死に訴える「なにか」。
 なにかなんて、知らない。
 なにかなんて、届かない。
 渚が混乱したように足をもつれさせ、空き教室を飛び出していく。
 追いかけようとした美由を流宇が凄まじい力で押さえつけるのを、美由は細腕一本で薙ぎ払った。
 受け身をとった流宇が床から見上げる先、美由が無邪気に笑う。

「──鬼ごっこ開始、全殺しよ!」

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あきゅろす。
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