小説
恋を患ったふたり(中)



 保健室で目が覚めた孝則は、何に用いるつもりか片手に陶器の花瓶を握り締めた満也がベッド脇の椅子に腰掛けているのを視界に入れるや否や、警戒する満也の前でおもむろに起き上がると、そのままベッドの上に正座して頭を下げた。

「すいません、ひと目惚れしてから目で追ってただけなんです。見つけると視線で追わずにいられなくてあれこれ気付いちゃっただけなんです。視線がセクハラといわれればそれまでですが、誓って尾行や私物を漁るなどの犯罪行為はしていません。ほんと見つけたときに見てただけです。ほんとすいませんでした」

 徹夜五日目の呪縛から解き放たれた孝則は、常識を取り戻した。
 短い別れを経験して、やっと帰って来てくれた常識は、意識を失う前の孝則の言動がいかに危ういものかをよくよく自覚させると同時、どうしようもないほどのやっちまった感をもたらした。
 孝則には謝罪しかできることがない。

「ひと目惚れって、ひと目惚れか」

 いっそ冷え冷えとして聞こえる満也の声に、孝則は弱弱しく顔を上げて「はい」と肯定する。
 満也はやはり冷えた顔をしていたが、その顔は次第にじわじわと赤くなっていった。

「べ、別にうれしくないしっ」

 しまいにはそっぽを向いてこれである。
 徹夜五日目で出て行った常識全てを回収するには、ほんの数時間にもならない睡眠では足りなかったらしい孝則は決める。

 これもう恋人になるしかないだろ。



 あの日から、恋煩いによる不眠症は引き摺ったままの孝則は徹夜のテンションで口説き、ぶっ倒れては正気と常識を取り戻し反省、という文章にすると傍迷惑以外のなにものでもないアプローチを繰り返した。
 しかし、これが案外うまくいったのだ。
 満也はテンションの落差が激しい孝則による、意図せず緩急のつけられたアタックにペースを乱され、正常な思考が揺れた瞬間を口説かれることでとうとう「あいつといるとこんなに落ち着かないって……恋?」という誤認にまで到った。
 そうなれば後は早い。
 満也の心が僅かに向いたことで希望を見出し、孝則は不眠症が改善され、常に常識と良識をもって紳士的に満也へ接する。満也の心情を少女マンガ的に表現するならば「あれ? こいつってこんなにやさしかったの……?」だの「こいつくらい俺を大切にしてくれる奴って……」といった具合だ。
 実際は満也も悩んだものだ。
 不眠症こそ患わなかったものの、気になる相手の前では素直になれないツンデレ症候群を患った。
 満也は努力家で、その努力に見合うだけの結果を出してきた。周囲は満也を尊敬し、自分とは違う存在として一線引くことも珍しくなかったのだが、そこを無遠慮なほど大胆に乗り越えてきた孝則という存在の対処法を、満也は知らなかったのだ。

「会長、好きだ」と孝則が言えば、
「別にうれしくない、わけでもないっ」と返し、
「会長、名前で呼びたい」と孝則が言えば、
「ふ、ふんっ、勝手にしろっ」と返し、
「満也」と孝則が甘ったるい声で呼びかければ、
「ひゃいっ?」と裏返った声で返事をした。
 これら始終、真っ赤な顔で。
 孝則はその反応に辛抱堪らんようになっていたが、常識が在住しているので理性は強固に手放さない。ただ、あんまりにも反応が可愛いので、態と耳元で名前を呼んでみたり、赤面を指摘したりと、からかってしまう。
 それを見ている周囲が一途な孝則と、素直になれない満也の微笑ましいバカップルと認識するのも仕方がないことで、満也は知らず知らず外堀が埋められていった。
 かくして、孝則はストーカー疑惑による吊橋効果、緩急による押してだめなら引いてみろ戦法、外堀埋め立ての三本に意図せず成功し、満也と恋人関係になるのは時間の問題というところまでいった。
 放っておいてもくっつくであろうふたりだったが、神は孝則勝利にベットしているのか、仕上げにかかったらしい。



 唐突にやってきた季節はずれの転入生は「お前ら社会に出たら女のひとと結婚するんだろ? その時に過去振り返って気まずくならないのかよ!」とか「婚約者いる奴だっているんだろ? そのひとに申し訳ないって思わないのかよ!」とか「教師が生徒に手を出すとか、懲戒ものだ!!」とか、ご尤も過ぎて申し開きのしようがないことを主張した。
 ただ、残念だったのはその後に「でも俺はいまが楽しければいいから、お前らは俺と一緒にいればいいと思う!」とか「俺フリーだし、割り切った関係とかいつでも歓迎!」とか続けたことだろう。ちなみに、生徒に手を出している教師はいなかった。いても、皆卒業まで待っていた。五十歩百歩であることは否定できない。
 転入生の言葉が前者に留まり、後者の本音を隠して立ち回っていたならば「あいつ実は性悪過ぎ」「自己の正当化に忙しい」と謗られもしただろう。だが、転入生は正直だった。いっそ清々しいほどに正直だった。その正直さは「こいつ面白い」という方向に見られ、一躍転入生は時の人である。

「……あいつ得意の建前と本音に『仕事さぼって罪悪感はないのかよ』『そのしわ寄せいった人間に俺が恨まれるだろ』っての追加してくんねえかな……」

 持ち帰りの書類を片手に寮へ向かいながら、満也はぼそりと呟いた。
 遊びたい盛りの役員達がこぞって転入生に構いにいってしまい、仕事放棄こそしていないものの、仕上げが雑で、満也が一々チェックしなくてはならなくなった。些細な仕事も重なれば面倒くさく、ここのところ、満也は体のダルさが抜けない。
 休みたくてもやるべきことを脳内に列挙、付箋で目に見えるように並べてしまえば、これを終らせるまで、とねばってしまうし、片付けてもまた次の仕事が湧いてくる。
 ここ暫く睡眠も食事も疎かだ。
 若い身空で自律神経失調症を患いそうで、満也は乾いた笑いを浮かべる。
 実際、すでに情緒は不安定になっている。
 泣きたい。疲れたと叫んでなにもかもぶん投げたい。しかし、そんなことはプライドが許さない。
 満也が深いため息を吐いたとき、後ろから「満也?」と聞きなれてしまった孝則の声がした。
 振り返れば、やはり孝則がいて、なんだか久しぶりに姿を見たような気がして、満也は呆ける。

「随分やつれているが……大丈夫か?」

 近づいてきた孝則はそっと満也の頬を撫で、心配そうに満也の顔を覗きこんだ。

「……満也?」

 なんの反応もしない満也に孝則が心持大きな声で呼びかければ、ようやく満也はまばたきをした。

「たかのり……」
「ああ、大丈夫か?」

 無意識に満也は首を振っていた。

「だいじょうぶじゃない。全然だいじょうぶじゃない」

 目を瞠る孝則の前で、満也の口は思考回路を通さず言葉を垂れ流す。

「疲れた。寝たい。腹も減った。でも休めない。孝則ともなかなか会えない。時間とれない。疲れた。もうやだ」

 拙い口調で言えば、孝則は顔を赤くする。なぜだろう、と思いつつも、満也はふらふら腕を伸ばして孝則の服を掴んだ。

「孝則」
「あ、ああ。なんだ?」
「俺のこと好きか」
「……そう、いい続けていたように思うが。伝わっていなかったか?」
「好きか?」
「……ああ、好きだ」
「そっか、俺もお前がたぶん好きだ」

 にこ、と幼い笑顔を浮かべ、満也はそのままぶっ倒れる。
 意識を失う直前、背中に腕が回されたのを感じて、満也はうれしくなった。

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