小説
十五話
迷いながら、結局美由は訪れていた。
生徒総括室。
ノックをすれば、優の声で返事と入室許可がある。
「失礼します」
「おや、お前が来るだなんて珍しいね」
丁度休憩するところであったのか、茶缶を片手に持つ優がにこりと微笑んだ。
さり気なく部屋を見渡しても流宇の姿はない。
「あの子はお使いに行っているよ」
「そう」
目ざとく気づいた優に頷き、美由は促されるまま優の向かいのソファへ座る。
優は目の前でてきぱきとお茶の準備を始めていて、程なく美由の前にも良い香りのする紅茶が置かれた。
「美味しいわ」
「それはよかった」
嘘偽りのない本心だ。優の淹れる紅茶は美味しい。
ほっとしてから美由は一瞬目を茫洋と彷徨わせる。
兄弟がふたりきりで過ごすことなんておかしくも珍しくもないことなのに、途方もなく久しぶりであるように感じてしまうのは、それだけ距離があるからだろうか。
心の距離が。
「それで、どうしたんだい。いつでもおいでと言ったって来ないお前がようやく来たんだ、どうせ用も引っ提げているんだろう」
「……そうね。用もなく来る気は、なかったわ」
「寂しいことを言うね」
優の言葉も本心だと知っている。知っているのに、美由は甘えることなんてできやしないのだ。
手元で揺れる優の目と同じ色を見つめながら、美由は躊躇いを含んだ声で切り出す。
「北島渚のことだけれど」
「ああ、あれね。なにがあったんだい」
どうかしたか、とも言わず、なにかがあったという前提で進めるのは、美由の性格を理解しているからだろう。なにもなければ、美由は態々動きなどしない。あったとしても、滅多なことでは動かない。
「……あたしと兄さん……双子の兄弟にかしら、随分と執心しているようで、大分頭がおかしいわ」
言ってから、言う前から、美由は自嘲を堪えきれなかった。
よりにもよって自分が他者の執心を指して頭がおかしいなどと、よくも言えたものだ。自分を棚に上げるにもほどがある。それとも己が見えていないのか。聞けば手を叩いて笑い出す連中もいるだろう。
優はきれいな笑みを湛えてはいるけれど、決して嘲笑を浮かべはしなかった。
「心配するとしたら、わたしよりもお前のほうであるような気がするけどね。
総括長として詳細は話せないが、お前にこそ執着していると思うよ。その在り方は些か歪んでいるけれど」
「どういうこと」
「心当たりがあるんじゃないかい」
──美由には幸せになる権利があるの……誰を不幸にしたって!
「まあ、お前への執着でこちらに接触してきているのは確かだよ。否定しない。お前が懸念するように、わたしも気をつけよう」
「…………そうしてちょうだい。忙しいところ、ごめんなさいね。もう行くわ」
「もうかい? セックスでもしていけばいいのに」
優の戯言を黙殺して、美由は総括室を出た。
美由のいなくなった総括室で、優はソファから立ち上がり鍵のかかった棚の前へ立つ。この棚には鍵がない。そのことを知っているのは優だけだ。しかし、開け方を知っているのは優だけとは限らない。
取り出した針金を差し込んで数度いじれば、棚の鍵は口を開けた。
中から取り出したのは総括長のみ閲覧を許可された書類、ではなく、それに関連する優が独自に調べたもの。
内容は北島渚について。
裕福な家庭に潮、渚の双子兄弟は生まれる。
虚弱体質であった潮は幼い時分は自宅療養することも多く、外出することも稀であったが、次第に健康を取り戻し十代半ばでは幼少期が嘘のように闊達さを見せた。
反対に幼少期は活発であった渚は年々引っ込み思案になり、何事も潮が一緒でなければ活動したがらない傾向を見せる。
ここまでならば兄弟仲の一例として見られることも多いだろう。
北島兄弟が、渚がそうではないと判明するのは、潮に恋人ができたときであった。
後に判明することであるが、潮の恋人に対する執拗な嫌がらせ、脅迫を行った渚は、それでもその恋人が潮と別れないと見るや、下校中を待ち伏せして襲いかかり首を絞めて殺害しようとした。
幸いにも未遂に終わったが、相手は精神に支障を来しいまも自宅療養を続けている。
これだけの事件を起こしていながら渚の件はニュースにも新聞にも載っていない。北島家は地域の有力者と懇意であり、被害者は貧しい家庭という嫌な想像がそのまま当てはまってしまうような力関係にあった。
さらにいえば、潮との恋人関係も相手が望んだものではなく、北島の家に逆らうことができなかった、別れを切り出すのが恐ろしかったというものだというのだから、あまりにも被害者が救われないのだが、それだけでは済まないのだ。
潮は心を病んで療養している被害者のもとへ押しかけ、こう叫んだという。
「いつまでもぐちゃぐちゃ悩んでるから落ち込むんだ! 俺が元気にしてやるから出てこい!!」
潮なりの愛情だったのだろう。
潮なりの励ましであったのだろう。
あまりにも無神経であった。
あまりにもひとの心がなかった。
被害者の家は結局引っ越した。貧しい家庭で、どれだけの負担だっただろうか。
荒れる潮に、渚は半狂乱になる。
「どうして? どうしてなの、兄さん。ようやくあのくそ女がいなくなったのに、どうして『アタシ』を見てくれないのっ?
アタシは兄さんと幸せになるべきなのに! 兄さんはアタシと幸せになるべきなのに!!」
潮が被害者のもとへ通い詰める間に、どれだけ両親から制止されても始めた女性的な振る舞いをやめなかった渚は、家の中だろうと外だろうとふとすれば狂乱して潮を揺さぶり、喚き立てた。
「そのことで流石に地元へは置いておけなくなり葛谷へ、ね……随分上手くやってくれたものだねえ。誰が幾ら包まれたんだか」
その件は既に上が動いている。生徒の管轄ではない。
ぱしぱし、と片手に書類を打ち付けて、ふと優は腕時計を見る。
「流宇?」
使いへ出した彼が総括室を出てからどれほど経った? 使いを果たすのに必要な時間はどれほどだ?
誰か、生徒と立ち話でもしているのかもしれない。
ありえない。
誰か、教師に用事を言いつけられているのかもしれない。
ありえない。
流宇は、声を持たない。
流宇は、視力も極端に低い。
それらを補えるほどの学力と運動神経を鍛え上げてこの葛谷学園にいるけれど、そんな流宇に手間を掛けてまで話しかける生徒は多くなく、まして優の用事の最中となれば生徒も教師も遠慮する。
優は携帯端末を取り出し、知鈴へ連絡しながら総括室を飛び出した。
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