小説
三十二話



 朱熹は山のなかを走っていた。

「なんでなんでなんで、なんなんだよぉっ」

 苛立ちと焦燥感の混じった声で吐き捨てながら、懸命に走っていた。
 朱熹の背後には一定の距離を保って、品性乏しい人間が追いかけてきている。

「ぎゃははははは! もーいーかーいっ?」

 嘲る顔も下品な人間は、以前にも遭遇したことがある。
 尊き主人の子息にご帰還を促すべく参上した自分に蝿のようにまとわりつき、行動を阻害した煩わしい生き物。直後、当の子息によって虫に変えられたのは朱熹にとってちょっとしたトラウマである。
 それでも、朱熹は与えられた使命を投げ出すことなどできず、再び人間の巣へとやってきた。
 ただし、同じことをやっても結果は目に見えているため、今回は心強い相手も伴っている。
 心強い相手なのだ。
 きちんとその気になってくれさえすれば。
 主人の子息に関することは、その気になってくれるはずであった。
 なのに、相手は現在この場にいない。気づけばいなくなっており、途方に暮れた朱熹が探し回っているところに、あの人間の雄が朱熹に襲撃をしかけたのだ。
 認めたくはないけれど、この人間は強い。
 人型をとっている自分では勝てない、と朱熹は自覚している。
 だが、主人の子息の意図も分からぬうちから、人間の巣で本性を晒して混乱を招くなど朱熹にはできなかった。そういうところばかりは、主人の子息も憐れむところであると、朱熹は気づいていない。
 朱熹は人間の巣から脱して山のほうへ走り、現在に続いているが、一向に人間を振り払えずにいた。

「考え事ですかー? 余裕じゃんねええ!!!」

 いつの間にか人間が前に回り、飛び退ろうとした朱熹にナイフを二本、三本と投擲する。
 どれだけの膂力で投げたのか、叩き落とそうとしたナイフはその勢いを殆ど殺さぬまま朱熹の皮膚を削り、塗り込められていた毒が肌を焼いた。
 朱熹の肌を焼くほどの毒だ。只人であれば数秒もすれば泡を吹いて事切れるだろう。ならば、つまりは、人間は「殺し」にきている。

「ぐっ」

 僅かに鈍った足を、更に投擲された馬針が地面へと縫い止める。
 瞬間、目の前に人間が立って、朱熹の胸ぐらを掴み上げた。

「はぁい、つーかまーえたぁ!」
「は、なせ、下郎!」
「質問に答えたら放してやんよ」

 なあ、とニタニタ笑っていたのが嘘のように無表情になった人間は、朱熹の胸ぐらをぎりぎりと締め上げながら問いかける。

「『宮様』っつぅのは『百鶴宮』のことか?」

 朱熹の腸が煮えくり返る。

「ッ人間風情が宮様の御名を口にするな!!!」

 何故、その名を知っているのかだとか、何故そんな質問をするのかだとか、そんなものは頭から吹き飛んで、ただ人間の不敬ばかりが朱熹に叫ばせた。
 叫んでしまった。
 ──にた。
 にたり、にたにた。
 人間がわらう。
 品性の欠片もなく口角を上げて、三白眼を弓なりにして、にちゃりにちゃりと粘着質で執拗な笑みを浮かべる。

「やっぱり、同一人物なんですねええええええぇぇ?」

がん、と朱熹の足を縫い止める馬針が踏みつけられた。
 目がちかちかするような痛みに顔を歪める朱熹に、人間は愉快そうな顔をして更に馬針を踏み躙ってくる。

「答えろよ……あのときお前の中身をぶち撒け……──なんでお前、指揃ってんの?」

 いま気づいたとばかりに、人間が掴み上げる手を離そうと抗う朱熹の手を凝視する。

「完全に千切れて落としてった指、どうやったら生えるんだよ……」

 指から手へ、人間の視線が上がり、朱熹の赤い両目を捉えた。

「お前、人間じゃ、ないな?」

 迸った咆哮、縦長になった瞳孔。
 鋭く伸びた朱熹の爪が閃き、人間の顔面を引き裂こうと狙った。

「おっと、取り込み中かな?」

 弾かれたように朱熹と人間は距離を取り合う。
 双方の中心にはいつの間にか、それこそ今まさに「発生」したのではないかという不自然なまでの自然さで、男が立っていた。
 影のように黒い装いの男は、しかし刃物のように輝く銀色の目をしていて、朱熹を、人間をちら、ちら、と見てから朱熹のもとへ歩み寄る。

「朝烏様……! 今までどちらにっ」

 男、朝烏は「んー?」と間延びした声を出しながら首を傾げ、責める口調の朱熹に反省した様子もない。

「足、痛くない?」
「……大したことではありません」

 縫い留められてるにも拘わらず、無理やりの移動で大きく裂けた朱熹の足からは血が地面に流れている。

「私は許嫁殿の気配を追ったのだけど」
「宮様のっ? どうしてぼくに教えてくれないんですか!」
「気づいたらいなかったから。でも、一緒にいればよかったかな?」

 朝烏は人間を見遣る。
 置いてけぼりにされたことに露骨に不満を露にしている人間は、朝烏に視線を向けられるなり、馬針を鋭く投げてくる。
 朝烏はこれを掴み、しげしげと眺めるとおもむろに齧り始めた。
 馬針は金属でできている。
 だというのに、朝烏の歯はまるでビスケットでも齧るようにばりぼりと馬針を噛み砕いて、やがて飲み込んだ。

「あんまり美味しくないね」
「おいおいおいちょーっと待ってよ。なんなの? 二人して人間じゃないの? 人間にしか見えないのに人間じゃないとか、それどんな化け物よ」

 人間がうんざりした様子でポーチから剣を取り出すのに、朱熹は構えたけれど、朝烏は平然とした様子で眺めている。

「どんな、と言われても……そうだね──人間は我らをドラゴンと呼び、我らもまたそうと自認しているよ」

 朱熹が悲鳴のように朝烏を呼んでも、朝烏は応えない。
 人間は……畏怖を見せるどころか、嗜虐的なまでの愉快を滲ませて、剣を構えて大地を踏みしめた。

「へえ……そいつは……楽しみじゃんねえええええええええ!!!!」

 まばたきの間もない踏み込み、詰められた距離、薙ぎ払われた剣は朱熹の目では追うこともできない。
 先程までは真実遊ばれていたのだと朱熹が自覚したのは、朝烏が腕で剣を受けた姿を見てからのこと。
 僅かに、僅かでも、朝烏の装束を切り裂き、肌に、肉に食い込んだ剣。骨には決して届かない。肉とて半ばにも届かない。それでも、確かに人間の、たかが人間の刃がドラゴンの肌を切り裂いた事実に朱熹は恐怖を覚える。

「おや、なかなかだ……」
「硬えなあぁぁ……!」

 ず、と肌から剣が引かれ、繰り返される連撃。
 朝烏は全て同じ腕で受け、少しずつ、ほんの少しずつ、朝烏の腕は傷を増やし、血を流し、ぼろぼろになっていく。

「ガードばっかしてんじゃねえよ、ざってえな!!」
「そうかい? じゃあ、一撃」

 傷ついた腕での掌底は目に見えぬ神業となって、人間を吹き飛ばす。そのまま内臓が破裂してもおかしくない一撃を、しかし人間は剣を犠牲にすることで受け流し、吹き飛んだ先でも受け身をとって最低限の打撃に留めた。

「おや……」
「は、はは! 楽しい、楽しいじゃんねええええええ!!! 百鶴宮もだけど、あんたも、あんたも楽しいよ、ぎゃは! ぎゃはははははは!!!」

 朝烏は首を傾げて朱熹を振り返る。

「朱熹。あの人間は何故、我が許嫁殿のことを知っているのだろう?」

 朱熹は言葉に詰まる。百鶴宮という呼び名を何故あの人間が知っているのか、それは朱熹にも分からないことだ。
 まあいい、と人間に向き直った朝烏の銀の目には、先程までにはなかった色が灯っていた。

「少しばかり悋気を起こしそうだ。精々堪えてくれ」

 人間は、獰猛な笑みを浮かべた。
 死が迫って尚も笑う、狂気の権化であった。

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