小説
九話
渚はなんとなく、思いつきで、突発的に、食堂ではない場所で昼食を摂ろうと思った。
購買で購入したのはピーナッツクリームの入ったコッペパンとサンドイッチ、それからゲーブルトップのレモンティー。
がさがさと音を立てて袋を揺らしながら、渚は廊下を歩く。特別目的地があったわけではないが、いつまでもぶらぶら歩いていては昼休みが終わってしまう。
渚の目はふらふらと何かを探すように揺れていた。
それは最近よく会話をするようになったけれど役職から忙しい様子の優であったかもしれないし、昼休みになるなり要と教室から出ていった仲良くなろうとしてもなれない美由であったかもしれない。もしくは、それ以外の誰か。それこそ、誰でもよかったのかもしれない。
そのとき、渚の視界に入ったそのひとこそが、渚の目的の人物なのだ。そう、なり得るのだ。
そうして、渚はひとりの人物を見つける。
白い、白いひとだ。
葛谷学園の制服は海老茶色のブレザーだけれど、それを抜きにして白いと称するのは、そのひとの髪が老人のように真っ白であったからである。
渚はその人物を知っていた。
「流宇!」
気さくに呼びかけて駆け寄り、肩を叩いた渚にゆっくり振り返った彼、流宇は、烟ったい色をした目を「なにか?」といったようにゆっくりとまばたきさせる。
「ねえねえ、よかったら一緒にお昼食べない? ひょっとして優と約束してる? それなら混ぜて!」
断られるなんて微塵も想像していませんという表情で流宇の顔を覗き込む渚に流宇は暫し思案して、胸ポケットから取り出したメモとペンで文字を綴る。
──あなたは優が好きですか?
噛み合わぬ問いかけに渚は面食らったが、すぐに満面の笑みを浮かべて頷く。
「もちろんよ! 美由とは双子のお兄さんなんですってね。とっても素敵だわ。大好きよ」
美由とももっと仲良くなりたいのだけど、と続ける渚に構う様子もなく、流宇は更に文字を綴った。
自身の言葉を聞かぬ流宇に渚は唇を尖らせたが、提示されたメモにがらりと表情を変える。
「…………は?」
真っ白なメモに黒い線が引かれて綴られる文字の羅列。
──優はあなたのお兄さんではありませんよ。
──優はあなたのものではありませんよ。
──優は誰かの代わりになりませんよ。
──美由は……
バシッと鋭い音を立てて渚は流宇の手からメモを叩き落とした。
無表情。その目にだけ宿る怒り。眼差しにだけ留められた、留めるよう努力された怒り。憎悪。
「なに、なんの話。どういうつもり。あんたが、あんたがアタシのなにを知ってるっていうの……っ知った口叩いてんじゃないわよ『口なし』が!!」
流宇に対する最大級ともいっていい暴言を叩きつけて、渚は廊下を駆け出した。
空き教室を通り過ぎる。教材室を通り過ぎる。階段を駆け下りる。進む進む。走る。駆ける。
やがて息が切れて、膝が折れて、立ち止まった廊下。
顔を上げれば幽霊でも見たような顔をする自身が窓に映っていて、渚は息を呑む。
この顔は、表情は知っている。
見たことがある。
自分が悲鳴のような泣き声を上げていることに気づいたのは、右腕に激痛を感じてからであった。
「あれ? 今日、教員の誰かって外出予定ありましたっけ?」
「……なにかあったの」
「いえ、敷地から車が出ていくところで……しかもあれ、神林先生のじゃないかな」
神林は養護教諭で、普段は保健室に待機している穏やかな人物だ。彼の車が学園の敷地から出ていくのをフェンスの側に立った要に並んで確認した美由は「誰かが大層な怪我でもしたんでしょう」と呟き興味を失くす。
あまりにも重症、重病であれば救急車が呼ばれるが、その限りでもなければ神林が車を出して病院へ連れて行くのが通例だ。
要も「そうですね」と頷いてフェンスから離れたが、ふとメッセージの通知を告げる携帯端末に気づいて確認すると「へえ」と僅かに驚いたような声を上げる。
「運ばれたの、北島らしいです」
「……ふうん」
「なんでも窓を素手で叩き割ったとか」
「……馬鹿じゃないの?」
というよりも、なにがあったのか。
単純に躓いて手をついた窓を突き破ったというのならば分かるが、要は「叩き割った」と言っている。つまり、故意だ。
硝子というのは割れれば凶器に変わる。鋭く皮膚を切り裂き、突き刺さる。そのことを人間は既に理解しているのだ。つまり、どういう結果になるか分かっていながら過程に踏み込めるものは、理性の歯止めが利いていないことになる。
神林の車で病院に向かったようであるから命に別状はないのであろうが、あまりにも危険な行為に美由は呆れる。
「そんな危険人物と同室だなんて嫌だわ」
「左様ですかー……」
「冗句よ」
「織部さん、センスないですよ」
そうね、と美由は頷く。
否定はできない。する気もない。
「帰って来なければいいのに」
美由は学園の敷地より向こう側へ視線を向ける。
もう、学園から出ていった車は見えない。区別もつかない。
帰ってこなければいい、と美由は繰り返す。
「あの子、嫌いなのよ」
「左様ですか」
「大嫌いよ、気持ち悪い」
「そこまで他者を厭われるのは珍しいですね」
だって、と美由は渚のことを思い出す。
いつだって明るく振る舞って、感情の起伏がきっと良い意味で激しくて、誰にでも親しく歩み寄って。
大凡ひとに好かれることのほうが多いであろう好人物。
ただの好人物であれば美由はなんとも思わなかった。好悪の別もなく、無感情しか抱かなかった。
けれども、美由は渚に対して我慢ならないことがあるのだ。
「あの子、兄さんといるとき必ずあたしのほうを見てくるの」
流宇は叩き落とされたメモを拾い、埃を払う。
「『可哀想』っていう目で、見てくるの」
流宇の朧気な視線で捉えるメモに走る文字は。
「なにも知らないくせに、知った顔でね」
──美由は可哀想じゃないですよ。
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