小説
八話



「──流宇」

 呼ばれた名前に彼は振り向く。
 烟ったい色の目は視力の劣化を示していて、しかし彼は不自由もなさそうに自らを呼んだ相手へひたりと視線を合わせる。
 ことん。
 稚い仕草で傾げられた首は童女が「なあに?」と訊ねているような風情であるが、彼は身長も高く百八十センチまで伸びた高校生男子である。
 むくつけきとは謂わぬが同年代がすれば違和を覚えるであろう仕草が妙に似合うのは、彼の浮世離れした雰囲気が故であろうか。
 立花流宇。
 それが彼の名前だ。
 流宇を呼んだ優は彼へ数枚の書類を手渡すと「朝風先生に」と一言告げた。
 生徒会顧問の名前に頷くと、流宇は今しがた自身が座っていた椅子から立ち上がり、生徒総括室のドアを開ける。
 一歩、敷居を跨ぎかけた流宇の背中に優の声。

「流宇、あれをどう思う?」

 流宇はゆっくりまばたきをして、喉元を撫でる。
 あ。
 わ。
 い。
 お。
 う。
 唇の動きだけで答えた流宇は、静かに生徒総括室を出ていく。
 優は閉じられたドアを数秒見遣り、後ろの窓を振り返った。
 燦々と降り注ぐ陽光も眩い青空。

「『可哀想』か」

 優はもはや意識せずとも保たれる笑みを深め、視線をもとの位置へと戻した。
 電子的な明かりを放つモニタには、葛谷学園の生徒では生徒総括長でなければ閲覧することの許されない内容が表示されていた。

「絞殺未遂ね──不愉快だこと」



 渚は弄言を弄言で済ませる人間ではないらしく、彼は美由へ述べた通り英語の教えを請いに優へ接する姿を頻繁に見せた。
 その姿は美由にとって愉快なものではない。胸には常にさざなみが立つし、伸びた爪が僅かに手のひらに食い込むこともある。
 これが、兄を取られた弟の嫉妬という言葉で済むような、かわいらしいものであればどれだけよかったであろう。
 違うのだ。
 違う。
 美由の優へ向ける感情は。

「織部さん、昼食一緒にどうですか?」
「え……」

 昼休み、要に誘われた美由は驚く。
 要が改めて美由を誘ってきたことなんてほぼない。いや、高等部に上がってからは初めてではないだろうか。
「ね?」と茶目っ気を見せながら促す要の目が一瞬別の方向を見る。美由も視線だけ向けて、すぐに椅子から立ち上がった。
 美由と要の様子に気づいて声を上げようとしている渚から逃げるように、ふたりは教室から出る。あとは教室にいる他のクラスメイトが足止めをしてくれるだろう。
 そういう関係であった。
 美由にとってどこまでも都合のいい、美由だけが楽な、美由のためだけの、関係であった。
 そんな人間が美由にはたくさんいて、その得難い存在の誰もが、美由にとっては要らないもので。
 それを相手も、要も承知しているのに、彼らはまったく構うことなく美由のためにと動くのだ。美由のために地獄へ落ちようとするのだ。
 罪悪感も抱かない、美由のために。

「こっち、食堂じゃないけれど」
「ちょっと貸し作って屋上の鍵貰いました。期間限定ですけど」

 期間が過ぎれば鍵が換えられるのだという。
 銀色の鍵を翳した要に先導され、美由は屋上へ向かう。
 テレビドラマなどでは生徒が屋上で昼食を摂る姿も多く見かけるが、現実では事故防止のためにもきちんと施錠されて自由な出入りはできないようにされている。
 貸しを作って鍵を手に入れたという要とて、きっと他の生徒には秘密にするよう言い含められているだろうに、と美由は呆れたが、開かれたドアからの向こうに広がる青空に彼は一瞬言葉を失くした。
 眩くて真っ直ぐに見ることも叶わないほどに青々とした大空であった。
 気温はまだ高いけれど、風が心地よくて気にならない。
 美由は屋上を数歩進んでただ呆然と青空を見つめる。
 はっきり言って、美由は美景へ対する機微があまりない。芸術へ対する機微もあまりない。計算として、知識として称えることはあっても、美由の本心は殆ど揺らぐことがないといっていい。
 けれども、美由はいま目の前に広がる大空に青い目を釘付けにしていた。

「兄さんが……」
「はい」
「兄さんが連れだしてくれたとき」
「はい」
「こんな、晴れた空だったのよ」

 どうしてかしら、と呟いて、美由はコンクリートでできた足元を見つめる。俯いた顔にかかる髪が陰を作った。

「ねえ、及川要」
「はい」
「あたしは……どうして間違えたのかしら」

 それは疑問符もつかない疑問。
 けれど、決して美由のなかで答えの出ない疑問。
 誰からの回答にも決して納得のいかない疑問。

「どうして、間違えることしかできないのかしら」

 脳裏に浮かぶのはしあわせそうな笑みと、離れていった手。
 美由は両の掌手のひらを広げて見つめる。
 時間だけはもう経ったけれど、何事もないように周囲は過ぎるけれど、美由のなかの時間は動かない。動いてくれない。
 美由の両手は、脈打つ首の感触を覚えたままだ。



 兄さん。
 兄さん。
 愛しているわ。
 それは兄さんを不幸にするの。
 どうして分かってくれないの?
 兄さん。
 兄さん。
 愛しているの。
 愛しているのよ。

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