小説
七話



 日々は刻々と進み、葛谷学園は文化祭の準備を目前に控えた。

「つまんない……」

 文化祭という言葉に目を輝かせていた渚がべしゃりと机に突っ伏すのを、美由は一瞥もしないままに手持ちの本に集中する。高慢と偏見。
 葛谷学園の文化祭は各国の言語を用いた討論会や、テーマを決めた論文の発表、現地や動物の生態を調査してのドキュメンタリー映画制作、外国文化を調べて伝統料理を振舞う模擬店など単純なお祭り騒ぎというにはお硬い部分が目立つ。
 渚にはそれが残念なようで、クラスでの出し物を決める際にわくわくとしていた姿は挙げられる内容に花が萎れるように力を失くしていった。そこで自らが思い描くようなお祭り騒ぎを推すほどに空気が読めないわけでも、己を貫きたいわけでもないらしい。
 結局決まったのは英語による討論会で渚は早速唸り声を上げている。

「英語で討論会ってなによ……ここは日本よ……日本語だけできればいいじゃない……アタシは海外になんて出ないわよ……」

 ぶつぶつ呟く声を聞き流していた美由は、次第に感じ始めた視線に眉を寄せる。

「ねえ」

 無視。

「ねえ、美由」

 無視。

「みーゆちゃん」
「……ちゃんはやめなさいよ」

 心底嫌そうに本から顔を上げれば、渚がぱっと華やいだ笑みを浮かべて両手をぱちんと打ち合わせてそのまま祈りの形組む。

「お願い、英語の練習付き合って!」
「お断りよ」
「美由が語学堪能ってアタシ知ってるのよ」
「だからなに」
「読み書きはそこそこいけるんだけど専門的なのになれば引っかかり多いし、なにより会話のほうは殆どだめなのよお!」

 美由はぎっちりと眉間に皺を寄せたまま、渚の顔をつとと見つめる。
 哀れな子犬の風情で美由を上目遣いに見遣る渚は「お願いおねがい」と繰り返しており、美由の視線に欠片も動じた様子はない。

「あなた、どうやってここへ入ったの」

 嫌味でもなんでもなく、美由は純粋に疑問だった。それが伝わったのだろう、渚はぎいい、と奇妙な唸り声を上げて唇を噛むと、殆ど逆上したように「ギリギリだったのよ!」と叫ぶ。
 美由が隠しもせず大声に迷惑そうな顔をして体を反らせば、そこを見計らったように渚が手を伸ばして美由の袖を掴む。

「ねえええ、お願いよおお! 同室の誼じゃない、クラスメイトじゃないっ」
「どっちもあたしが望んだことじゃないわ」
「そう、運命ってやつよ!」
「ああ、一番当てにならないわね」
「美由の石頭! アタシ今度は諦めないわよっ、諦めたらアタシが終了しちゃうんだから! いいのっ? クラスメイトが他のクラスメイトや教師が見守るなかろくに話せずしどろもどろな様を晒してもっ」

 美由は別に構わなかった。
 他人は他人だ。基本的に薄情なのである。

「今度という今度はひっくり返って駄々こねてでもお願いするわよっ」
「脅迫の間違いじゃない」
「ねえねえお願いよう、アタシができることなら大体のことはするからー」
「鬱陶しいっ」

 袖から腕へ、そのまま肩に抱きついてきた渚を美由は容赦なく引き剥がして突き飛ばした。「やんっ」と悲鳴を上げて渚が床に転がる。
 そのままさめさめざめ顔を覆って肩を震わせだした渚に、美由は心底苛々しながら本へ視線を戻す。

「酷い……酷いわ……」

 無視。

「あんまりよ……血の色は何色かしら……」

 無視。

「こうなったら──」

 静かな声色。

「優くんにお願いするしかないわね」

 振り返り、美由は指の間から笑みを見せる渚の顔を真顔で見つめる。
 渚はまるで面を外すような仕草で両手を膝へ置くと、その場で体育座りしてゆらゆらと揺り籠のように体を揺らした。

「美由が語学に強いって聞いたからお願いしたけど、だめなら学年主席にダメ元でもお願いするべきよね。彼、とっても優しいし」

 まるで親しげな物言いにも美由の表情は動かない。
 ただ、青い目だけはちりちりと焼けたように輝きだし、爛々と渚を捉えている。それは、猫が得物を捉えている瞬間にも似ていた。

「この前もね、少しお話する機会があったの。優くんってお話上手ね。親切だし、きっと、もっと、仲良くなれるわ」

 いいえ、と渚は首を振る。

「仲良くなるわ。アタシ──彼のこと大好きよ」

 毒々しいほどに甘ったるい声が、美由の耳にぐちゃぐちゃと入り込んで脳を侵す。
 丁寧に整えられた爪も美しい指先がぴくりと揺れる。

「ねえ、美由。優くんが一等仲良くしている『彼』って誰? どうしたら『あそこ』に立てるの? ねえ……教えてほしいわ」

 雑音。
 雑音。
 美由の脳に響き渡る雑音。
 美由の脳裏を切り刻む砂嵐。
 散らばる書類。
 眩い視界。
 伸ばした手。
 どくどくと脈打つ熱。
 濁りかけの目と血の気のない唇。
 はくはくと動いた唇が音もなく刻んだ言葉。
 笑み。

「──座り込んでどうしたの?」

 どん、と勢いよく肩を掴まれて美由は我に返る。
 顔を上げれば既に美由から手を離した要がいて、座り込んだままの渚に手を伸ばしていた。

「美由に英語練習の交渉してたのよう」
「ええ? 織部さんに頼んでも、多分ついていけないよ?」
「酷いっ。もっとアタシの可能性を信じてちょうだいよ!」

 きゃんきゃん喚く渚を要がからかっている様子を暫し呆然と見つめ、美由はふと手元に視線を向ける。
 そんなつもりはなかったのに、もう終わったことで、終わらされてしまったことで、動揺なんてしても仕方のないことなのに。
 本のページがぐしゃぐしゃに縒れてしまっていた。

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