小説
十九話
カールが個人的な趣味からリシャールへ戻ってくると、小柄な少年が街の入り口近くをうろうろしていた。
不審者は不審者であるのだが、その様子はどこか見慣れないものに警戒しつつも好奇心を覗かせる猫のようで愛嬌がある。
カールは持ち前の破落戸が如き雰囲気で絡みに行くことにした。
「おにいさぁん、なーんかお困りぃ?」
にやにや笑いながら声をかけたカールに勢いよく振り返った少年は、近くで見ると驚くほど整った容姿をしていた。最近で見たなかでは百鶴宮だろうか。あの男には及ばないながらも、少年もまたそこらの女男では及ばないほどに美しい。
頬で切り揃えられた赤髪を耳にかけた少年は、カールを見て不審そうな顔をするとそのまま無視して街のほうへ向かおうとする。
なので、カールは全力で絡みに行くことにした。
「無視とか酷くなぁーい? おにいさんの名前は? 何処住み? 何歳?」
「付き纏うな、下郎」
存外高い声で辛辣な返事があった。
カールは沸点の高い人間ではない。
自分が一方的に絡んでおきながら、煩わしいという態度をとられるのも面白くないと感じる身勝手さもある。
カール・ランセルは、人間としては結構な割合でクソ野郎である。
「生意気なんですけどぉッ」
カールは装飾品に加工した魔道具を多く身につけているが、その殆どが武器である。
近距離戦の主要武器である魔爪を装備して襲いかかったカールに目を見開いた少年は、しかし瞬時に目を眇めて拳を固め──
「御前」
呼ばれ、ジェイドは振り向く。
ジェイドと五十鈴は採取依頼を請けて、岸壁険しい山へ来ていた。この地に住まうワイルドディアーの角が二対ばかり必要なのだが、足場が悪いにも拘わらずあちらは軽快に逃走するという、単純な採取依頼よりも困難な依頼であった。もちろん、その分報酬は高いのだが、ジェイドは面倒な依頼を請けたかもしれないと僅かに後悔している。
五十鈴の身体能力が優れていることは知っているが、何度見てもその格好は動きやすくは見えないのだ。
ジェイドが道中で悪かったな、と謝れば、花を散らすように喜んでいたので、五十鈴自身はまったく気にしていないのだろうけれど。
「どうした?」
一匹目のワイルドディアーから角を切り取っているところに声をかけられたジェイドは、それでも手を止めて振り返る。
五十鈴はジェイドのそばにしゃがみ込み、ジェイドの手元を見ていたのだが、いまはしっかりとジェイドのことを見つめていた。
なにか疑問点か、と思ったジェイドであるが、五十鈴から返ってきたのはジェイドが想像したどれとも違った。
「そろそろ吾の名前を呼んでくださらぬだろうか」
「あンッ?」
危うくジェイドは舌を噛むところであった。
目を見開いて五十鈴を凝視すれば、なんとなく不満を滲ませた五十鈴が見つめ返してくる。
「……いま、仕事中だから……」
「私事の最中であろうと、御前が吾を呼んでくださったことはない。吾の名は『おい』でも『お前』でもないぞ」
「お、おま……」
「お前」と言いそうになり、ジェイドは唇を結ぶ。
ジェイドの手が完全に止まったので、代わるように五十鈴がジェイドの手から刃物を取り上げてワイルドディアーの角を切り取り始める。きちんとジェイドのやり方を見ていたようで、丁寧な手付きだ。雑にやってしまうと報酬額が落ちる。
「舌を噛むような名ではなかろ」
五十鈴、という名は決して難しい発音ではない。
それなのに、ジェイドはその名を舌で転がすことはできても音として外に発することができなかった。
どうにも湧き上がる羞恥心が邪魔をするのだ。
「お……」
「吾の名は『お』からは始まらぬ」
「ですよねえ……」
五十鈴から目を逸らし、ジェイドは小さく小さく「いすず」と呟くが、それはまったく音として成立していない。ドラゴンの優れた聴力で以ってしても「もう少しはっきりお願いしたい」と言われる始末。嘘だ、絶対に分かってる、とジェイドはじっとりした目で五十鈴を一瞬見る。
「い……」
「五十鈴」
「……い……お」
「『お』はいらぬ」
どうしても声に出せず煮詰まったジェイドは「あああああっ」と叫び声を上げて立ち上がった。
無表情ながら幾分驚いた様子で見上げてくる五十鈴を行儀悪く指差し、ジェイドはもはや前後もまともに分かっていないようなぐるぐる回る目をしながら早口で捲し立てる。
「お、く! 奥!!! これでいいな!! いいだろ!!!」
唖然と、五十鈴が口を開く。
ジェイドは五十鈴になにを言われても恥ずかしくなる自分を承知で「もう一匹捕まえてくる!」と岩場を駆け出した。
だが、その足は数歩もしないうちに止まることになる。
「きゅー!」
「うおっ」
鳴き声を上げて飛びついてきたのは、尾も含めればジェイドの腕ほどの大きさの、なにやらひらひらと薄い衣をまとわせた真白いトカゲ……否、ドラゴン。五十鈴だ。
五十鈴はあまりの小ささに戸惑うジェイドに構わず、彼の首に緩く巻き付くと頬へ額へと擦り寄り、唇をちゅ、ちゅ、と合わせてくる。
「くすぐってぇ!」
「きゅ! きゅ! くるる!!」
どうやら大興奮しているらしい五十鈴を引き離すことはできず、ジェイドは文字通り全身での愛情表現を受け入れるしかなかった。
「おい、お前やめ……」
「きゅッ」
咎めるような鳴き声。
「……奥、落ち着け……」
「きゅー!」
勢いのまま決まった呼び名に歓喜の声を上げ、五十鈴はちゅちゅちゅ、と激しくジェイドに口づけた。
自分より激しい感情を見せている五十鈴に冷静さを僅かに取り戻したジェイドは、ああ、と嘆息にも似た息を落とす。
とうとう、自分から五十鈴を妻と認める発言、呼び名を決定してしまった。
今更だろう。
自身の子どもを欲しがっている相手をそうと知って抱いている日々を送りながら、なんとも思っていません、ただの仲間内の付き合いです、は無理があるにも程がある。
いつからそうと認めるだけのものが降り積もったのか、ジェイドには分からない。
最初から、打ち倒したはずのドラゴンの膝で目覚めたときから、なにかは始まっていたのかもしれないし、芽吹いていたのかもしれない。
どうでもいいことだ。
いつから、なんて、些末なことだ。
重要なのは、どれだけ、ということで、ジェイドは五十鈴を「奥」と呼ぶほどに、認めるほどに。
「……いつまでもはしゃいでないで、依頼さっさと終わらせるぞ」
「きゅ!」
ジェイドは五十鈴の頭を指先で撫でてやり、仕方なさそうに、それでも満足そうに笑みを浮かべた。
──ほんとうに?
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