小説
十二



「ひっ、うぇ、うっ、ぐ……っ」

 堪えようとしても堪えきれない嗚咽と、いくら拭っても零れる涙に目をこすり、小さく体を震わせながら泣いている彼方の姿に、玄一はぶちり、と頭のなかで奇妙な音が響くのを感じた。
 先ほどまで掴んでいた手は涙を払うのに使われていて、人肌を失いひんやりとする。その熱を取り戻そうとするかのように、膝の上においていた手をぐ、と握り締めた玄一は、荒い動作で立ち上がった。

「カナ、帰るぞ」

 自身の嗚咽にかき消され聴こえないのか、彼方は反応しない。

「カナ」

 力強く呼べば、ようやく彼方はゆるゆると顔を上げた。
 ぐしゃぐしゃの泣き顔を真正面から見て、玄一の耳の奥がじんじんする。

「……帰るぞ」
「…………あい」

 引き攣った声で返事をした彼方に頷き、玄一は秀次と絹子を一瞥する。

「日が悪いようなので、失礼します」

 しゃくり上げながら立ち上がった彼方の腕をとり、玄一は応接間を出ようとしたのだが、秀次が思わずというように「待ってくれ」と呼び止める声に足を止めた。

「……なにか」

 さり気なく彼方を自分の後ろに庇うように立ちながら、玄一は自分よりも随分と年嵩の男に臆することなく鋭い目を向ける。
 玄一は喧嘩に慣れていたけれれど、それを楽しむ性質ではない。できればそんな面倒は回避したいと思っている。だからこそ、大抵の相手を退けられるよう、その目は意図すれば刃のように冷たく研ぎ澄まされる。
 十代のこどものしていい目ではないそれに気圧され、秀次はごくり、と生唾を飲み込み、自身が向けられたわけでもないのに、絹子は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、後ずさりする。

「さ、桜は……そろそろ、時期が……」

 本来の約束を持ち出す秀次に、玄一は目を眇めた。部屋の温度が下がったように錯覚するほどの冷視を受けて、秀次は黙り込んだ。

「是非、見たかったのですが、ご都合が悪いようでしたら、仕方がないことでしょう。お気になさらず、桜は此方にしか咲かない花ではありませんから」

 慇懃無礼にすら聞こえる言葉を淡々と投げかけ、玄一は「失礼します」と目礼して踵を返した。
 玄一に肩を抱かれて促された彼方に、秀次は手を伸ばしかけたが顔だけを僅かに振り返らせた彼方の顔に哀しみしかなく、真っ赤になった目に恐怖しかないのを見て取って、諦めたように手を下ろした。

 遠目に見たときは、近くでと望んだ庭も今では忌々しさすら感じられ、玄一はなんの未練もなく突っ切って門をくぐった。
 しかし、離れを出たあと玄一の少し後ろを歩いていた彼方は、門の手前で立ち止まる。
 ついてこない足音に振り返った玄一は、じっと彼方の姿を見つめた。
 未だに止まらぬ涙に頬を濡らし、身も世もなく泣いている痛々しい姿に、叫び出したいほどの怒りが玄一の腹の中で渦巻いた。

(泣くな泣くな泣くな泣くなッ!
 泣いてんじゃねえよ、お前はいつもみてえにへらへら笑ってりゃいいだろうが。なんでそんな風に泣いてんだよ、笑え笑えわらえ!!
 ああああああ、ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうあの女がおの女がこいつを泣かしたあの女がこいつを泣かした!!!
 ふざけんなふざけんなこいつ泣かせるとかふざけんなよあのババア、なにこいつ泣かしてんだよなにこいつ傷つけてんだよふざけんじゃねえこいつをなんだと思ってんだよ、他人が勝手に傷つけるな泣かせるなちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうがあああああッッ!
 他の誰のものでもない、こいつは、こいつは……!!!)

 玄一は、衝動的に拳を横なぎに塀へ叩きつけていたが、コンクリートに裂かれた皮膚の痛みも、人間の拳では砕けないコンクリートによる打撲の痛みも、まるで感じない。脳内麻薬が生成されているようだ。もっとも、幸福感など欠片もないのだが。

「……カナ」

 搾り出すように出した声は、獣の唸り声にも似ていて、呼ばれた彼方は肩を跳ねさせた。
 恐々と見やった玄一は俯きがちで表情は見えないのだが、酷く怒り狂っていることだけは伝わって、わけも分からず彼方は背筋が震えた。

「カナ」

 もう一度、玄一は彼方を呼ぶ。

「あ……あい」

 涙声の返事はか細く、玄一には届かないかと思われたが、玄一はゆらり、と顔を上げた。

(玄ちゃん、怒ってる……)

 反射的に後ずさろうとした彼方の足は、再び呼ばれた名前に縫いとめられたように動かなくなった。

「なあ、カナ」
「な、なに……」

 ぐ、と玄一の手が伸ばされる。
 血が滲んで傷ついた手に瞠目する彼方に構わず、玄一の手は要求するように彼方へ向けられていた。

「お前は俺のだろうが」

 酷く、傲慢な言葉だった。
 けれども、それは確かに約束した言葉で、指を契って交わした言葉で、彼方はひゅ、と息をのむ。

「カナ」
「は、い」
「俺も、お前のだろうが」

 うっそりと、玄一は笑う。
 真正面からその笑みを見た彼方は、ふといつだったかテレビで見た笑顔の起源を思い出す。
 笑という表情は、そもそも歯をむき出しにして威嚇する動物のそれだという。
 玄一はなんて獰猛に笑うのだろうか。なんて恐ろしげに笑うのだろうか。
 立ち尽くす彼方に、玄一は言った。

「さっさとよこせ、とりにこい」

 その手をとったなら、きっと貪り食われるのだろう。
 そう確信してしまうような声音と顔を玄一はしていたのだけれど、彼方の足は頭で考えるより先に動いていた。
 ふらり、と一歩を踏み出せば、二歩目は駆け足だった。門を飛び越える足は止まらない。
 たった数歩の距離を駆けて、飛びついてきた彼方を、玄一は強く強く抱きしめる。決して離さないとばかりに込められた力へ応えるように、彼方も玄一の首に腕を回した。

「玄ちゃん、玄ちゃん玄ちゃん」
「ああ」
「おれ、おれ、かなしっ……悲しいよおおおおお!!」

 赤子の泣き声よりも素直に、感情を訴えかける彼方に、玄一は抱きしめる腕を硬くして、門の向こうを睨みつけた。

「哀しい……淋しい!」
「そうか……」
「玄ちゃん、ずっといてよっ! ずっと俺のそばにいてよ!! お願いだから、ねえ、お願いだから……っ」

 縋りついて泣く彼方の顎をぐ、と掴み、玄一は噛み付くように言い切った。

「ったりめえだ。一蓮托生つったろう、馬鹿が。
 てめえが逃げようとすりゃ足ぶった切っても傍においてやるから安心しろ、カナ」

 玄一の黒い目の中にほの暗く、苛烈な炎を見た彼方はぼんやりと思う。

(ああ、きれいだなあ)

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