小説




 離れの応接間は古き良き風情の洋間で、ゴブラン織りの長椅子に彼方と並んで座りながら、玄一は重い沈黙をどうしたものか、と強張った無表情の内心で思う。
 彼方は淋しそうな微笑を貼り付けたまま自身の膝頭に視線を落としていて、項垂れたような姿が痛々しい。
 元々他人に興味のなかった玄一は、そのひとの背景というものにも興味を示さない。深く根付いた在り方故に、たとえ彼方であっても玄一は彼自身を詮索することは今までなかった。
 刺繍が好き。亡くなった祖母が好き。甘い飴や駄菓子が好き。その日出会った玄一を愛称で呼ぶので人懐こいかと思えば人見知り。
 理系は得意だが暗記系になると途端に鉛筆を転がして答えを出そうとして、文系は漢字ミスで点を引かれることがしょっちゅう。
 そんなことならば知っているのだ。
 見ていれば誰でも得られるものならば、玄一は彼方の周囲で二番目に知っている自信がある。一番は彼方の祖母だろう。
 けれども、どうして好きなのだろう。どうして苦手なのだろう。そんな根源を、玄一は知らない。知ろうとすらしない。
 いま在るものをそのまま受け止め、それを構成した過去よりも、これから新たに育っていく未来にこそ意義を見出す。
 きっと、玄一は潔過ぎて冷たくすらあった。

(ああ、俺はこいつを知らない)

 片手で目を覆った玄一の足元を、開かれたドアから差し込む光が照らした。

「やあ、待たせてしまってすまないね」

 場違いなほど穏やかな声がして、青褐の単の上に桜鼠の羽織を肩にかけた中年の男が入ってきた。
 髪の色が、彼方とよく似ていた。
 立ち上がり、礼をしながら自己紹介する玄一に対し、彼方は硬直して男を見ている。
 差し出された手土産に礼を言って受け取り、男は「どうぞ、楽にしていいよ」と畏まる玄一を座るよう促し、自身も向かいの椅子へとかけた。

「はじめまして。飯田橋秀次です。
 桜の見学に若い子が来るっていうのにも少し驚いたけど、彼方がいたのにはもっと驚いたよ」
「えっと……」
「あはは。絹子の洗礼にはびっくり……いや、不快にさせただろう」

 くたびれたような微笑で秀次はため息を落とす。
 絹子とは、恐らく彼方に厳しい言葉をかけた着物姿の女性だろう。玄一は苦々しい顔をこらえ「はあ」と曖昧な相槌を打つ。
 秀次は「ごめんね」と呟き、玄一から未だに硬直する彼方へ視線を移す。

「彼方」

 秀次の呼ぶ声にびくり、と肩を跳ねさせた彼方は、反射的にといったように、玄一の手持ち無沙汰に膝の上へ置かれた腕を掴んだ。

「カナ……」

 戸惑いながら見つめた彼方の横顔は張り詰めていて、どれほどの緊張を内包しているのか、震える手の振動が玄一にも伝わる。

「すまなかったね。お前が帰ってくると知っていたら、絹子は外に遊びにいかせたんだけど……。ああ、そうだ」

 思い出した、というように秀次はぽん、と手を合わせ、彼方に向かって微笑みながら小首を傾げる。

「おかえりをまだ言ってなかったね。
 ――おかえり、彼方。可愛い僕の息子」

 ぎゅう、と玄一の腕を掴む彼方の力が強くなり、玄一は痛みを覚えたけれど、振り払おうとは思わなかった。
 らしくなさなど誰より自覚しつつ、玄一は掴まれているのとは反対の手で宥めるように彼方の手をたたく。
 ひゅう、と風鳴りのような音を漏らして息を吐き出した彼方は、恐々と口を開いた。

「……あ、の…………ひ、ひさし、ぶり……おとうさ、ん」

 十代のこども親に向けるには哀しい挨拶に、秀次はそれでもうれしそうに目を細めた。

「うん。おかえり、彼方」

「ただいま」といわない彼方に構わず繰り返す秀次に、玄一は場にそぐわない自身の存在をいたたまれなくさえ思うが、離さないでくれといわんばかりにきつく掴まれた腕が玄一を引き止める。

「秋田くんは、友達かい?」
「う、ん」
「そっか…………そっかあ!」

 秀次はぱっと玄一のほうを向く。その目尻に光るものにたじろぎながら、玄一は秀次とじっと目を合わせた。

「絹子のこともだけど、おかしいと思ったでしょう」
「いや、あの……」
「察してると思うけど、複雑な家庭ってやつでね……だから、よかったあ」

 秀次は視線を下げて、腕を掴む彼方の手を励ますように添えられた玄一の手を愛しげに見る。

「僕の母が亡くなって、彼方がどれだけ……」

 秀次はゆるゆると首を振る。

「ありがとう。きみがいてくれて、ほんとうによかった……」
「おと、さ……」

 よかった、ありがとう、と繰り返す秀次の姿に戸惑うの玄一ばかりではなく、幾分強張りの解けた顔を物言いたげに彼方は瞳を揺らした。
 だが、せっかく解けかけた彼方の強張りは、聞こえてきた騒音により酷いものへと変わった。

「奥様、お待ちくださいっ」
「黙りゃっ」

 乱暴に開かれたドアと、ヒステリックな叫び声。
 飛び込んできた絹子は秀次を睨み、次いで彼方へ忌々しいといわんばかりの形相を向ける。

「お前は私の言葉を聞いていましたかえ? 疾く帰れと言ったに、未だ居座るとは甚だ図々しい!
 飯田橋秀次様の妻はわたくしです! それをあの女はお前などを遺し、死した後すらわたくしを嘲笑うおつもりかやっ。お前も身の程弁え日陰に息を潜めていればよろしいものを、造りといい面の皮の厚さといいあの女に……」
「やめないか、絹子っ」

 捲くし立てる絹子を鋭い声で遮る秀次だが、少しばかり遅かった。

「ひぅ……っ」

 しゃくり上げる彼方の嗚咽が、応接間に奇妙な静けさをもたらした。

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あきゅろす。
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