小説
九
「お前がよくもまあ母と呼べたものえ……恥知らずは産みの母御にお似ましかや」
時代がかった口調は当たり前に使っていたのだろう、耳慣れぬ響きなのに、とってつけたように不自然なものではなかった。
その分、あっさりと鼓膜を通ってしまった言葉は、彼方の瞳を翳らせ、その顔を脇道に咲くすずらん水仙のように項垂れさせた。
相手方の最寄り駅についたとき、彼方はきょろきょろと周囲を見渡していた。見知らぬ場所が珍しいのかと思えば、不思議そうに首を傾げていて、その仕草に玄一こそ不思議に思う。
「どうかしたのか」
「ん、なんかデジャヴ」
「見覚えあんのか」
「……なんとなくね」
彼方自身も明確に知っている、というわけではないのだろう。なんとなく見覚えがあるような気がしないでもない、という曖昧さが、小骨が引っかかるような感覚にさせているようだ。
「ま、そろそろ行くぞ」
「うい」
難しい顔をし続ける彼方の腕を軽く引けば、素直に頷いた。
彼方の怪訝な顔は、メモを頼りに相手の家へ近づくたびに濃くなっていた。
玄一は気付いていたが、しかし何か言うべきこととも思えず、とりあえずは、と目的地を目指していたのだが、遠目にも分かる広い敷地の昔懐かしい佇まいの家を見つけ、恐らくあれが、と指差して隣の彼方を見た瞬間、その様子のおかしさにさすがに驚いた。
頬を引き攣らせ、ぎこちないへらへら笑顔で固まる彼方の手は、ほんの僅か、震えていた。
「おい、カナ? どうした、具合悪いのか?」
「ん、んーん、へーきだよ。うん、へーきです」
「いや、明らかに……」
「だいじょぶ、だいじょーぶ」
ゆるゆる首を振る彼方は頑なで、玄一は思わず「帰るか?」と訊こうとしたが、それよりも彼方が「ほら、行こっ」と玄一の腕を掴むほうが早かった。
玄一は掴まれた腕から伝わる振動に彼方を気にしながらも、足を進めた。
目的地は間違いないようで、近づけば丁度緑色の花びらを風に散らす樹が見えた。
あれが、緑の桜で間違いないだろう。
緑色といっても、あからさまにその色をしているわけではなく、薄い色味からして鬱金だろうか。葉共々、どこか侘しい色合いに風情があった。
早く近くで見ようと足を進め、とうとう門の前についた。
門自体は大きくも立派というほどでもないが、その向こうに広がる敷地は広く、母屋とこじんまりとしながらも離れが備わっている。
庭は春そのもので色とりどりの花が咲き、ふわり、と風にのって甘い香りが漂うほどだった。
僅かにさび付いた金属の門の脇についたインターホンに手をかけようとして、玄一は瞬きをする。
振り返った彼方の顔はぎこちなく固まったままで、玄一は握り締めていたメモをじっくりと眺める。
インターホンの隣にかけられた表札も、メモに書かれた名前も、彼方の苗字もみんな同じく「飯田橋」だった。
メモを見たときは、珍しくもない苗字を気にとめることはなかったが、近づくにつれて様子のおかしい彼方と、彼方の言動に見え隠れする生まれ育ちの複雑そうな背景。
「……カナ」
「――お客様でいらっしゃいますこと?」
「帰るか?」と玄一が問うより先に、敷地の方から女性の声がした。
ぱっと玄一が顔を上げれば、母屋の玄関から着物姿の女性が飛び石を渡ってこちらへやってきた。
遠目から見てもきれいな女性は、恐らく文江と同い年ほどだろう。
「どうぞ、おいであそばせ」
女性は上品に微笑んだが、その笑みは門に近くなったとき硬くなった。
やわらかに下がっていた目尻をつ、と吊り上げて、まっすぐ彼方を見ている。
「おかあ、さん……」
力なく呟いた彼方の声に反応して、女性はきゅっと引き結んでいた唇を解き、冒頭の台詞を吐いた。
「っ奥様!」
続けて女性が口を開こうとしたのを遮るように、母屋の方から駆け出してくるエプロン姿の女性は、やはり彼方を見て息を飲むと、さらに慌てた様子で着物姿の女性に駆け寄った。
「奥様、お部屋にいらっしゃると……お体に障ります。お戻りください」
「ええ、ええ、戻りますえ。あの女の子など見たくもない。
――疾く帰りや」
踵を返し、振り向くことなく母屋へ向かう女性を支えるようにしながら、エプロン姿の女性はふたりに向かってぺこぺこと頭を下げて「少し待て」というジェスチャーを女性に気付かれないように送った。
呆気にとられた玄一は、はっと我に返って項垂れる彼方の肩に手をやる。
「カナ……」
「……だいじょーぶだいじょーぶ。えと、ね、多分、さっきのひとが、おとーさん呼んでくれると思うから、そしたら入れるよ」
「お父さんって……やっぱり、ここは」
「ん。俺も殆ど覚えてなかったけど、実家だあね」
へらり、と笑った顔は痛々しかった。
こんなことになるとは思わなかったとはいえ、玄一は自分の行動が誤りだったかと後悔して、苦々しい思いになる。
「さくら、きれーだね」
玄一の厳しい顔に気付かぬ彼方は、ひらひら眼前を待った花びらを追うように、鬱金の枝葉へ目を向ける。
きれいだと言った口調は軽やかなのに、その顔はまるできれいなものを見ているようではなくて、玄一は堪え切れず彼方の頭を抱きかかえた。
「玄ちゃん?」
「悪かった」
こんな顔をさせたかったんじゃなかったのに。
搾り出された声に瞬きをして、彼方はすん、と鼻を鳴らした。
「んーん、べつにい」
彼方の震える声に、玄一の目頭が熱くなる。
それでも泣くまい、と唇をかみ締めた玄一の耳に、先ほど同様ぱたぱたと慌しい足音が近づくのを聞いた。
「お待たせしましたっ。旦那様にご連絡して、間もなくいらっしゃいます。お先に離れでお待ちください」
エプロン姿の女性が手早く門を開け、中へ促すのに玄一は躊躇したが、彼方が「いこ」とぎこちない動きで玄一から離れるので、重い足取りながらも玄一は門をくぐった。
「ようこそいらっしゃいました。
――坊ちゃん、お帰りなさいまし」
エプロン姿の女性は心から彼方を歓迎しているようだったが、彼方は微笑んだだけで「ただいま」と返すことはなかった。
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