小説
八
例によって例の如く、玄一の部屋でごろごろとスケッチブックで図案を書き散らしている彼方と、その手元を見ていた玄一の耳に、単調な電話の呼び出し音が届いた。
玄一が腰をあげかけたのと同時、ぱたぱたと文江の足音が廊下から聞こえて、自身は必要なし、と玄一は再び腰を落ち着ける。
「家電とか久々に聞いたかも」
「あ?」
ぽつり、と落とされた彼方の呟きに怪訝な顔をすれば、彼方は玄一に向かってひらひら手を振って「なんでもない」と示す。
特に変わった様子もなく、本人が気にするなと示すように些事なのだろうと玄一が片付ければ、再び足音がして、それは段々と近づいてきた。
「入るわよ」
一声かけて戸が開かれ、文江が顔を出す。
「喜びなさい」
「は?」
唐突な言葉に玄一が眉間に皺をつくり、彼方が小首を傾げるのも構わず、文江はひらひらとメモをかざして見せた。
「緑の桜が咲いてるお家の方がね、見学の許可くださったんですって」
彼方はがばり、と起き上がり、輝いた顔で文江を見上げる。
「え、なにそれなにそれ!」
「玄一がね、かなちゃんの……」
「お袋っ」
「――なんでもないわ。折り返しこちらから連絡しておくから、日を決めておきなさい。これが住所ね。失くさないのよ」
電話越しで聞いたからだろう、住所の下に文字で所在地の簡易説明が書かれたメモを文江から受け取り、玄一はきらきらした笑顔で見上げてくる彼方の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「よかったな」
「ありがと!!」
彼方の無邪気であどけない、こどものような笑顔を気に入っていたのだと玄一はまだ自覚しない。
土曜の休日に予定を決めて文江に連絡すれば、相手は快く承諾してくれて、ふたりの念願(というにはささやかな望み)は叶うこととなった。
相手の家は近くもないが、遠いというほどではなく、電車で四十分、最寄り駅から二十分の計一時間ほどの場所にあるようだ。
土地勘のない場所であることだし、玄一と彼方は大体駅に一時頃着く予定で出発した。
玄一も彼方も私服は若者らしく、一定の年齢をいったものには「だらしない」という印象を受けかねない。緑の桜だけでなく、庭そのものが見ごたえのある家と聞いていたので、初対面で悪い印象を与えるのは、もしかすればあるかもしれない今後を思えばうれしくない。なので、ふたりは心持小奇麗な装いである。
温暖化の影響か、春といっても動き回れば少し汗ばむ気温のため、熱がりの玄一は濃いグレーのスラックスに白いシャツ。銀でできたふくろうのモチーフが洒落たループタイと、素行不良ぶりがうそのようである。
彼方は玄一ほど暑がりではないので、ジーンズに白の開襟シャツ、薄いピンクのカーディガンを羽織っている。躊躇なくピンクを着こなせる彼方に、玄一は呆れるやら感心するやら、待ち合わせの地元駅で意外なことに先に来て待っていた彼方を遠目に見て、文江に持たされた土産の入った紙袋を片手に、玄一は思わず一瞬立ち止まってしまった。
「あ、玄ちゃーん! 玄ちゃん、玄ちゃん、玄ちゃあん!!」
もっとも、一瞬だけとはいえ立ち止まったせいで、見咎めた彼方に盛大な「玄ちゃん」コールをかまされ、衆人の注目を浴びることになったのだが。
「往来で大声出して呼ぶんじゃねえ、クソカナ」
羞恥に耐えて駆け出し、ぶんぶん手を振る彼方の頭を強かに叩けば、恨みがましい目を向けられる。
「玄ちゃんは俺の脳細胞をいくつ殺せば気が済むのさ。この脳細胞キラーめっ」
「その言い方だと俺が物凄く偏執的な嗜好の持ち主みたいだからやめろ。
ったく、さっさと行くぞ。お前切符は?」
「俺、ICカード派。チャージOKいつでも行けます!」
「奇遇だな、俺もICカード派だ。チャージ確認してくるから待ってろ」
「あいあい!」
びしっと敬礼する彼方を待たせて、玄一は素早く券売機でチャージを済ませる。残高がそれなりにあったので、千円も突っ込んでおけば帰りの分も十分間に合うだろう。
「カナ、行くぞ」
「あーい。あ、お菓子買っていい?」
「買ってもいいが、電車内での飲み食いは許さねえ」
「……じゃあ、いらない」
(遠足中のガキか、こいつは)
何が哀しくて同い年の高校生男子を引率しなければならないのか。玄一は心なし肩を落としながら、彼方を促してホームへ向かった。
「楽しみだねー」
「そうか」
「玄ちゃん楽しみじゃねえの?」
ホームを照らす陽光の眩しさに手を翳しながら、それでも楽しそうに言う彼方を一瞥して、玄一は肩を竦める。
正直なところをいえば、緑の桜そのものに玄一はそこまで興味はない。
きれいな景色も、きれいな生き物も、きっと目にすれば「ああ、きれいだな」という感想を持つだろう。しかし、それらそのものよりも、玄一は彼方の刺繍にこそ興味があった。
きれいなきれいなものが彼方の手で再現されて初めて、玄一は感動に胸を震わせるのだ。
だから、彼方が見たいと言ったものは見せてやりたい。彼方が目にしたそれらを図案として立ち上げていく様を見ていたい。
ある意味で、玄一は世界を彼方越しに見ていた。
それは、彼方次第でいくらでも世界が変わって見えるということだったけれど。
彼方に世界を預けてしまった玄一は、ふらふらとしながらいつまでも自由な彼方を信じて疑わなかったので。
数時間後、それでは駄目なのだと玄一は思い知る。
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