小説
七話



「──やってくれたわね」

 雪総は目の前で轟々と燃え盛る炎に忌々しさを隠さず、顔を歪めた。
 久巳組本家、大炎上。
 消防隊が必死に消し止めようとしているが、火の勢いは強く、黒煙は天高く舞い上がっている。
 関係者曰く。

「見知らぬ男女数十名が押しかけてきて火を点けて周った」
「火が回るのは早く、逃げるのが精一杯だった」
「男女についてはなにも知らない」
「銃声? 自分たちはすぐに逃げたので」

 図々しいまでの知らぬ存ぜぬ振りに、捜査員が何度声を荒げそうになったことか。
 久巳組相手に荒々しい捜査態度をとれば、彼らは厚かましいまでにそこを突いてくる。故に、久巳組相手に捜査するときは忍耐に忍耐を重ねて冷静さを保つ必要がある。久巳組への捜査と聞いて嬉しい顔をする捜査員は誰もいない。

「よくもまあ躊躇なく本家を燃やせたもんだわ……そんなに関西の生き残りが憎いの……」

 関西の半グレに襲撃を受けて本家が全焼などと、面子が潰れるどころの話ではない。
 もちろん、そんなことを信じるものはいないだろう。けれども、起きたことは起きたことだ。それが事実として残るのだ。
 だが、そんな面子よりも久巳組は半グレたちを皆殺しにすることを選んだ。自分たちは罪など犯していないという顔を保ったまま、全員を殺し尽くしてみせたのだ。
 これが久巳組である。
 関西の暴力団組織が関わった瞬間、理性をかなぐり捨てて獣と化す恐ろしきヤクザである。

「あの、古雅さん」
「なあに、草部」
「こんなときですが、例の件で分かったことが」

 雪総は草部の耳打ちしてきた内容に目を見開く。

「え、うそ」



 炎渦巻く地獄の様相を見せる久巳組本家から脱出し、ホテルで一泊した静馬は自宅へと帰された。

「話したいことが……まあ、色々ある。だから、カウンターの奥で待っててほしいぞ」

 そこが四季の望む静馬の居場所。
 踏み込むな、とはもう四季は言わない。
 ただ、そこにいてほしいと望んでいる。
 カウンター奥で珈琲の香りをさせて、悪態を吐いたっていい、ヤクザだ極道だなんて分かりきっているとばかりにそんなものを無視して、時折わらっている姿を見せてほしい。
 平凡な平穏が続く様を見せてほしい。
 そこで佇む静馬をなにより愛している。
 そう願う四季によって、静馬は帰された。
 けれども。

「うそだろ」

 冷たくなった体。
 閉じた瞼に、薄ぅく開かれた唇。
 組んだ両手はもう、静馬の頭を撫でることもない。

「うそだろ」

 静馬は繰り返す。

「祖父さん……」

 自宅で泥のように眠っていた静馬を叩き起こしたのは、実家からの訃報。
 静興が亡くなったという知らせ。
 元々体調を崩していて、入院していたのだ。
 久巳組での騒動の日も、静馬は静興の見舞いへ行く予定であった。
 入院中は眠っていることが多かったけれど、辛そうな姿をあまり見せなくて、それが心配でもあって。どこかで覚悟していないわけではなかったけれど。

「でも、だからって……なあ」

 静馬の頬を伝う涙が床へと落ちる。
 両親は葬儀の準備を始めて慌ただしく、それが余計に現実的ではないように静馬には感じられた。

「静馬」

 労るように母親が声をかけてきて、静馬は目元を手の甲で拭って「なに」とぶっきらぼうに返事をする。

「お義父様のご友人の連絡先、知らないかしら」
「え?」

 静興の友人と聞いて真っ先に浮かぶのは、静馬に紅茶の淹れ方を教えてくれた紳士的な老人。
 彼と会うのは静興に連れられたときか、彼が個人的にテッセンを訪ったときで。
 静興の手帳などには書いていないのか訊ねれば、母親は首を振る。そうだ、静興はそも手帳など使わないひとであった。

「あっ、そういえば店のオーナーやってるって! その店なら知ってるわ」

 静馬は急いで以前も彼に用があって連絡した件の店へ連絡を取り、事情を説明したところ愕然とすることになる。

「え……亡くなった……?」
「はい、先日……家族のいないひとで、こちらもやはり連絡先など知っている知り合いの方を存じ上げず……」

 気落ちしたような相手の声を聞き、静馬はどうにか電話を切り上げた。
 ぽっかりと足元へ穴が空いたような心地がする。
 祖父も、祖父のように慕っていたひとも亡くなった。
 自分の知らぬうちに、自分の手の届かぬところへ行ってしまった。
 呆然とする静馬を置き去りに時間は流れ、静馬は葬儀の場にいた。
 外は湿っぽい雨が降っている。
 葬儀には元市長だったという老人や、どこかの地主という人物、静興の所有する物件の関係者などが参列していた。

「こいつにはまんまとやられたよ」
「そちらもですか。当時はほんとうに腹が立って……でもいまは……ねえ」

 元市長と地主が苦笑いしながら静興の顔を見つめ会話しているのが聞こえて、静馬の肩から僅かに力が抜ける。
 何処かの誰かにとっても、静興は静興らしい人物だったのかもしれない。
 誰かのなかにも静興の断片が残っているような気がして、静馬はほんの少しだけ慰められ、同時に打ちのめされた。
 だって、もういない。
 眼の前にいるひとはもう、なにも語らない。
 肉を失い頼りなげに見えても力強かった手は、ぬくもり一つ残していないのだ。

「ちょっと……外出てくる」
「雨、酷くなってるわよ」

 引き止める母親に唇を噛んでいると、父親が肩を押した。

「僧侶の方が見えるまでには戻れ」
「ありがとう……」

 どこか冷ややかな口振りが癖であることは知っている。
 静馬は雨のなか葬祭場を出て、軒下で空を見上げた。
 ざあざあと賑やかなくらい降っている雨は、その分だけ静かにも感じる。なにもかも隠してしまいそうだ。
 ここで一人の人間が死んで見送られていっているなんて、誰にも知られないようにしているのだろうか。
 詩的だな、と自嘲に唇を歪めた静馬の耳に、タイヤの擦れる音が聞こえる。
 顔を上げれば駐車場へと入ってくるスモーク張りの車。
 初めて見る車だ。
 ジュリエッタでも、アルファードでもない。
 どこにでも埋没できそうな車種。
 運転席を降りてきたのは泥沼のような目をした男。
 ひゅっと息を呑む静馬に目礼した男は、傘を後部席へ差し掛けてドアを開く。
 差して歩こうとする男を制し、自ら傘を差して歩いてきた四季は「この度は……」と言い掛けて目を丸くする。
 雨のなかに飛び出すように、静馬は四季の胸へ縋り付いていた。

「祖父さんが」
「……ああ」
「大事なひとだったんだ」
「だから、来たんだ」
「ずっと、ずっと大切にしてくれてた」
「そうだろうな。そうだろうって、分かるぞ」
「俺、俺さあ……っ」

 静馬は顔を歪めて涙する。
 涙の一粒ひと粒に静興に対する感情が詰まっているような錯覚さえした。

「祖父さんに、死んでほしくなかったよ……!」

 ずっと生きていてほしかった。
 ずっと元気でいてほしかった。
 なんでも知ってる自慢の祖父さん。
 さり気なく静馬を助けてくれていた優しい祖父さん。
 そんな静興に、一体どれだけのものを返せたというのだろう。
 そんなことも分からない、そんなこともあやふやなまま、静興は逝ってしまった。

「生きてて、ほしかった」

 四季の片腕が静馬を抱き寄せた。

「──分かるぞ」

 よく分かる、と四季は言う。

「俺も、死んでほしくなかったひとがいる。生きててほしかったひとがいる……だから、よく分かるぞ」

 辛かろう。
 悲しかろう。
 寂しかろう。
 でも、幸せが一つ。

「恨みも憎悪もなく、純粋に祖父さんを悼んでやれるマスターは、それだけで十分に……孝行な孫だと思うぞ」

 静馬を抱きしめたまま、四季は雨空を仰いだ。

「……俺も、俺だけの人生を願われたんだったなあ……」

 どうすれば幸せになれるのか、なっていいのか、初めて考えたような顔をする四季が切なくて、静馬は彼のスーツを強く握った。
 強く、つよく。消えない皺になるくらいに。


 しめやかに葬儀が執り行われるなか、焼香だけ済ませた四季たちはいつの間にか姿を消していた。
 線香の番をしながら静馬は静興へと語りかける。

「くそ野郎で馬鹿野郎のことなんだけさ、ちょっと聞いてくれよ。
 ひとのことを好きだ愛してるだ騒がしいくらい繰り返して。その癖、ひとのことを突き放す身勝手具合が腹立って……矛盾に気づかない馬鹿さ加減に苛立って……好きになんてなれるはずもなくて。
 でも……あいつ俺のエスプレッソ飲んで幸せそうな顔するんだよ。これ以上ないくらい、他のひとよりずっと、ずっと。それなのに、幸せなんか知らない、あっちゃいけないって生き方しようとしてさあ……腹立つだろ」

 新たな線香を足しながら、静馬はもう答えてはくれぬひとへ問いかける。

「身一つで来いって言ってやってもいいんだけど、身一つになれない馬鹿野郎はどうしたら幸せにしてやれるんだ?」

 烟る線香の向こうから応えはない。
 沈黙だけが満ちる。

「……祖父さん、やっぱ逝くの早えよ……ばか」

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