小説
四話
四季の顔を見た瞬間、静馬のなかでなにかが音を立てて切れるのが分かった。
なにか、なんてほんとうは分かりきっている。
でも、それだけじゃないのだ。それだけでは。
「……お前ら、下がれ」
夾士郎は鏡一と伴って静馬と別れ、静馬は益岡に案内されて客間へとやってきた。
静馬と顔を合わせた四季は、静かに益岡たちへ下がるよう命じた。戸惑う気配が漂うが、四季の命令は絶対だ。粛々と部屋から益岡たちは出ていく。
最後まで静馬へ物言いたげな視線が絡みついたけれど、その一切に構うことをしなかった静馬は細く、長く息を吐き出す。
「……殊勝さに免じて、一発で済ませてやる」
「……怖いな」
静馬の手加減なしの拳が四季の頬を殴打した。
蹈鞴を踏むも堪えた四季は顔を顰めながら切れた唇をなぞる。
「遠慮がねえな」
「するわけねえだろ。されると思ってんのか」
「……その可能性はあるだろ、マスターなら」
静馬は四季の胸ぐらを掴む。
至近距離で睨みつける静馬の目は怒りに煮え滾っている。
「ここ」へ来るまで、静馬は様々なことを飲み込んできた。
ヤクザの秘密へ接触することも、駆け引きをするのも、直接的な被害に遭うのも、警察に目をつけられるのも、あらゆるものを静馬は飲み込んできた。
覚悟していたから。
四季というヤクザと関わることで発生するあらゆることを覚悟していたから。
歓迎などもちろんしていない。するわけがない。平穏が好きだ。愛している。
それでも、それでも、と静馬は全て飲みこんできた。
「だっていうのに、てめえはいつまで経っても腹の一つも括らねえ……!!」
「マスター……」
静馬は激しい怒りのままに四季を揺さぶる。
視界が烟る。
泣きたくなんてないのに、高ぶった感情が涙腺を刺激して涙を誘うのが悔しい。
悲しみなんかじゃないのだ。静馬が滾らせているのは純粋な怒りなのだ。それをどうにかして、目の前の愚かな男へ分からせたかった。
「なんで俺をこんな場所へ呼んだ」
「……マスターの身が危ない。それがうちと相手さんとの戦争の合図に使われるからだぞ」
「事が終わるまで此処にいろって?」
「そうしてほしい。匂坂をつける。安全なのは分かっただろう」
「事が終わったら帰れって?」
「それ以外になにがある」
静馬は四季の胸ぐらを突き飛ばした。
「またそれか……」
「……マスター?」
理解していない四季に静馬は苛立つ。
これだ。
これが四季だ。叶四季だ。
四季は静馬に言う。あいしてる。
四季は静馬に見せる。組より優先しない。
一体幾度静馬が巻き込まれてきただろう。
その全てへ最後には可しと告げてきただろう。
どれだけ静馬は四季を受け入れてきただろうか。
どれだけ静馬が四季を受け入れたところで、四季は。
「踏み込ませる気もねえくせに好きだなんだって笑わせるんじゃねえよ!!!」
四季はヤクザとしての己に関わることを可しとしない。
しかし、四季はヤクザとしての己を優先して生きている。
四季は繰り返す。
──マスター好きだぞ。
──愛してるぞ!
笑顔で繰り返す。
静馬が応えたところで自分から突き放すしかない感情を、何度も何度も差し出してくる。
「そんなもんになんの意味がある!」
意味がないなら無価値だと断じるほどに静馬は非情ではなく、傲慢ではなかった。
受け取ることさえも覚束なくならざるを得ないものを、それなのに四季は繰り返し繰り返し何度も差し出してくる。
自分の矛盾に、身勝手に、ちっとも気づかない有様で。
「お前のその勝手こそが、俺は大っ嫌いだ!!」
心から吐き捨てる。
溢れた涙。
白皙の面を伝う涙。
震える唇は血が滲んで赤く、揺れる黒い双眸はただただうつくしい。
「いやだぞ……」
緩く首を振りながら、四季の伸ばした手が静馬の腕を掴む。
「それは、いやだ……」
「お前がなにを思おうと、お前は変わらねえだろうが。なら、俺の感情だって変わりゃしねえんだよ」
静馬は四季の手を振り払う。
悲痛に顔を歪めた四季が、猛然と掴みかかってくる。
静馬がしたように胸ぐらを掴み、引き寄せ、間近に四季の必死な顔が迫る。
「俺は! 俺は……だけど!」
「なんでもかんでも俺が許すと思うな」
「そんなこと思って……」
「思ってたからの今、この瞬間だってまだ分からねえのか!!」
静馬も四季の胸ぐらを掴む。
馬鹿だ、愚かだ。どれだけ賢い頭を持っているかは知らない。静馬にとって四季はひたすらに愚かしい男だ。
「そんだけ好きだなんだ抜かすんなら全部持ってくぐらいやってみろ!! 俺は試食品じゃねえんだよッ」
ぐしゃり、と四季の顔が歪む。
「だって……」
幼いこどものように繰り返される「だって」が、何度目かでようやく続くまで静馬は何度も「なんだよ」と応え続ける。
「だって……俺はヤクザでしかいちゃいけないんだ……」
瞬間、真顔になった静馬が四季の足を払う。
急なことに転倒した四季の上に馬乗りになり、振り上げた拳は躊躇なく下ろされる。
顔の真横へ叩きつけられた拳を見つめてから静馬を見上げた四季へ、静馬はこれまでで一番の怒声を上げる。
「不幸を捨てる勇気もねえ根性なしがッッ!!」
静馬の目からも涙が零れ、四季の頬へと落ちる。
悔しくて悔しくて堪らないのだ。
不幸になりたがりのくせに手を伸ばしてくる四季が悔しい。
そんな四季にとって、人生という長い道のりで舐める飴玉程度に扱われる自分が悔しい。
「言えよ、なにが一番欲しいのか言えよ。理性の話なんかしてねえんだよ。感情で言えよ。お前は、俺を、どうしたいんだ」
泣いた顔を隠そうとする四季の手を、静馬は無理やり引き剥がして床へ縫い止める。
悲しそうに、恐れるように、困惑と、躊躇と、たくさんの悔恨でぐちゃぐちゃになった四季の顔を静馬は見下ろす。
「…………………………………………いっしょにいたい」
漸く振り絞られた声は微かで、小さくて、ふとすれば吐息に紛れてしまいそうだったけれど、静馬の耳に確かに届いた。
「そうか──お断りだ馬鹿野郎」
「……え?」
どっこいしょ、と掛け声ひとつ、静馬は四季の上から退いて片手をぷらぷらと振る。床を殴りつけるのは流石に痛かった。
冷やすものを貰おうと部屋を出ていこうとする静馬の背中に、四季の必死な声がかかる。
「待て待て待てマスター待って、四季ちゃんついていけない。いますごくOK出る雰囲気だったぞ。なんで? え? なんで?」
「俺はお前の意思確認をしただけで俺の感情そのものはお前をくそったれな迷惑野郎だと認識している」
「いやいやいやいやそうだろうけど! そうでしょうけれども!!」
「だから」
追い縋ってきた四季は、戸の手前で振り返った。
「お前になんの蟠りもなくなって、それでもまだ俺と一緒にいてえって思ってんなら……そんときは俺も覚悟してやる」
四季が唇を震わせた須臾も待たず、轟音が辺りを揺らした。
[*前へ][小説一覧][次へ#]
無料HPエムペ!