小説




 鬼が笑うような予定をたてたものの、彼方はいますぐデザインを決定する気がないらしい。
 スケッチブックに描かれたデザインも、彼方には珍しく大雑把な線と文章で注釈したもので、イメージしか伝わらない。

「頭んなかにはあるけどさ、やっぱ本物見たい。パソコンで検索できるけどさー、本物見てやっぱ途中でーって思っても、固定概念? あると邪魔じゃん」

 口を尖らせながら彼方は言うが、玄一はなにも返さなかった。
 だが、彼方が帰ったあと、玄一は台所で夕食の支度をしている文江に声をかける。

「お袋」
「あら、なあに」

 手伝うでもなく顔を出した息子を邪険にもせず、ほうれん草を洗っていた手の水気を軽く切り、前掛けで拭った文江は振り返った。

「緑の桜って知ってるか」
「……御衣黄、鬱金、黄桜、浅黄桜。ああ、後二つは同じものって言われてるわね。あら、鬱金もだったかしら。
 御衣黄はね、一番緑色がはっきりしてるの。鬱金は緑がかった黄色ね。でも、形は御衣黄より桜っていわれて納得できるわ。御衣黄は樹や葉っぱを見なけりゃ桜って分からないかもしれないわ。
 なあに、かなちゃん?」

 手伝いくらいはするが、家業に然程興味を示さなかった息子が、最近出来た友人のおかげで積極的なことを、文江はよく知っている。
 きつめの顔立ちにおっとりと笑い皺を作った文江に、玄一は頷いた。

「本物見たいんだと。どっか知ってるか?」
「当たり前だけど、仕事で使ったことはないわ。ええと……ああ! そういえば、片倉さんがちらっと話していたかしら。
 お知り合いのお庭の梅が寿命でね……ただ引っこ抜いてしまうよりはって枝をいただいたことがあるんですって。そのときにね、もう少しすれば緑の桜が咲いて、これも寿命になったら、なんてお話をしたって聞いたわ」
「個人宅でもあるのか」

 下手をすれば小旅行の日程でも組まなければならないのか、と覚悟していた玄一は、あっさりと母親から話を聞けたことに拍子抜けすると同時、特別観光どうのの場所以外にあることに驚いた。

「そりゃあるわよう。まあ、あちらはどうやら古くっから土地に住んでる方らしいから、それもあるでしょうけど。お庭が素敵だって、言ってたわ」
「それって、見学とか……」

 文江は苦笑いしながら、湯を沸かした鍋にほうれん草をくぐらせた。ほんのりと、青いにおいがしたような気がして、玄一はすん、と鼻を鳴らす。

「玄一はほんとにかなちゃんが好きねえ」
「……別に」
「私は玄一がこっちの継いでくれたら嬉しいから、かなちゃんのおかげで玄一が興味持ってくれてありがたいの。
 片倉さんにお話だけはしてあげるけど、あんまり期待するんじゃないわよ。まだ咲いてるかも分からないし」
「頼む。んじゃ……」
「待ちなさい。ただで行くもんじゃないわ。皮むきしてきなさい」

 用は済んだと台所から引っ込もうとした玄一を引きとめ、文江は野菜かごに入っている人参と牛蒡を指差した。
 今夜はきんぴららしい。



「ただいまー」

 誰もいない家でも、彼方は帰宅の挨拶、外出の挨拶を欠かさない。挨拶を厳しく躾けた祖母はもういないが、その躾けは彼方の中で生きている。
 特別広いわけではないが、古い一戸建ては一人で住むには十分で、明かりを点けないで通り過ぎる玄関は、祖母が存命のときに砂壁だったのをリフォームして、奥よりは新しい。
 庭に面した廊下はうっすらと月明かりが差し込んで、幼い頃はひとりで歩くのが怖かったが、この年になれば平気だ。ただし、明かりは絶対に点ける。
 朝と、夜と、彼方はこの廊下の突き当たりの部屋へ行く。元は祖母の部屋。いまではご先祖様の部屋。仏間だった。
 障子を引けば、染込んだ線香のにおいが漂った。
 廊下を明るくした分、暗さの目立つ部屋の明かりを急いで点けて、彼方は仏壇の前に座る。
 チャッカマンでお灯明を点けて、線香は三本。鈴を鳴らして、手を合わせる。祖母がやっていた通りを真似る彼方だが、その意味までは知らない。

「祖母ちゃん、ただいま!
 あんね、今日も玄ちゃんとこ行ってきた。んでね、玄ちゃんと制服に御揃いの刺繍することにした!」

 祖母が亡くなってから、彼方は仏壇に向かって一日の報告をする。
 祖母が相槌を打つ声は聞こえないけれど、彼方の声だけがする部屋は余計に淋しい気がするけれど、彼方はずっと続けてきた一日報告を欠かさない。

「玄ちゃんのお母さん、少し会ったけど、今日もきれいだった。んでね、言ってたんだけど、赤色染めるときって温かくて、青色染めるときは涼しいんだって。草木染だからね、赤に使うのは体温める漢方? みたいなの多くて、青はね、藍でね、川入って洗うから涼しいって。温かい色出すのはあったかくて、涼しい色出すのも涼しいってすげえな! でも、玄ちゃんとこは藍染めするときは、家でやんないんだって」

 玄一も好きだが、玄一の母の文江も、彼方は好きだ。
 ぶっきらぼうでその辺の不良も適わない、どころか、その不良の頂点に立ってしまうような玄一の母とは想像もできないようなひとだ。きつめの顔をおっとりと微笑ませて「かなちゃん」と彼方を呼ぶ声が好きだ。彼方のために、多めに試し初めの糸を用意してくれて――

「……んでね! その後でね、玄ちゃんの部屋でお揃いのって決めたんだけど、卒業式に着るとき完成させる予定だから、桜にした。
 でも、ただの桜じゃつまんないじゃん。だからね、緑の桜って思い出したから、あれにすんの」

 ほんの少し揺さぶられたような胸を宥め、彼方は報告を続ける。
 彼方の頭をぶっ叩いたり、蹴ったりすることも珍しくない玄一だが、彼方が刺繍の話をすれば、いつだって真面目に聞いてくれて、その姿勢は協力的だった。
 それがどれだけ嬉しいか、玄一は知らないだろうし、その感謝を表現するだけの方法が、彼方には分からなかった。

「玄ちゃん、ほんとにほんとに俺と刺繍やってくれっかなあ。玄ちゃんが糸染めてね、俺がその糸で刺繍やんの。祖母ちゃん、やっぱり俺の性格見限んないで教えてくれればよかったのにさー。ま、祖母ちゃん負けず嫌いだもんな。俺が祖母ちゃん抜いちゃうの嫌だったんだろ」

 故人の思惟などいまでは分からないが、そういう子供っぽいところがあるひとだと知っている。

「緑の桜刺すころには、俺もっと上手くなってるもんね。祖母ちゃん、俺が抜いちゃうことより、見れないことに悔しがるかんな」

 にしし、と笑った彼方は、ふと遠い目をする。

「でも、俺、緑の桜ってどこで知ったんだっけな」

 記憶のなか、おぼろげに見たことがある気がするのだが、それがどこだったか、よく思い出せない。

「……飯田橋の家かなあ」

 あの家の庭は色々な草木があって、季節ごとの花がきれいだと、祖母が言っていた。
 五つになる前に祖母に引き取られた彼方は、庭どころか家の中すら殆ど覚えていないのだが。


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あきゅろす。
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