小説
四話



 四季に兄と母のようなひとができたのは、まだ片手で年齢を数えることのできる頃のこと。
 四季の年頃のこどもは周囲におらず、幼稚園では四季と我が子を遊ばせたがらない他の親の影響で一人遊びをすることが多かった彼は、突然現れた兄という存在を心から歓迎した。
「にーに、にーに」と呼んで慕ってついて回って、勉強の途中でも邪険にせずに遊んでくれる貫之が大好きであった。
 貫之の立場が不安定だというのもある。
 幼いながらに聡明な、聡明すぎた四季は、自分の心証一つで貫之の立場が変わることをよく理解していた。だからこそ、彼を大好きな兄として臆面もなく慕う姿を隠さなかった。
 反対にどう接したらいいのか、子供心に悩んだのが薫。
 母ではないけれど、母代わりのひと。
 出しゃばることは決してないけれど、さり気なく誰も手がつけられなかった奥を采配するようになったのも薫である。
 久巳組に姐はいない。
 つまり、四季に母親はいない。自分が生まれた頃に亡くなった。写真は数枚残っているが、気が強そうで、常に鋭く前を見据えているひとだと話に聞いた。そして、父である千歳をとても愛していた、とも。
 薫は優しいひとだ。
 今まで部屋住みが作っていた四季の食事は、薫が作ってくれるようになった。
 砂糖がてきとうに入れられていた卵焼きが、なんとなく柔らかでやさしい甘さになったのは薫が作るようになってから。

「薫さんの卵焼きはどうして美味しいの?」

 四季の問いに薫は唇の前に人差し指を立てて言う。

「魔法を使ったのよ」

 薫の魔法はたくさんあった。
 誰にも真似できない香ばしい大学芋。香り豊かな人参のグラッセ。
 淡い紅色の薄墨ご飯はこっそり見ていたから魔法は解明された。
 他にも色々。
 四季は魔法を知ろうと思うのに、薫は四季を「火のそばは危ないから貫之のところへ行っていなさいな」と台所から追い出してしまう。貫之も四季を抱っこして連れて行ってしまうので、魔法はなかなか解明できないままだ。

「魔法のままでも美味しいだろう?」
「魔法が使えるようになりたいんだぞ」
「誰かに使うの?」
「にーにと薫さん」

 そっか、と笑う貫之と、薫にご飯ができたと呼ばれるまで遊ぶのが四季の毎日であった。
 千歳はあまり顔を出さない家の奥、三人で囲む食卓は楽しくて、美味しくて。
 でも、薫は夜にはいなくなることが多い。
 ──千歳の愛人だから。
 寝室にいる日であっても、薫は一緒に寝てはくれない。
 貫之は四季と一緒に寝てくれるけれど、薫はそうではない。
 お母さんでは、ないからだろうか。
 夜の空白が寂しくて、こっそり呼んだことがある。
 誰もいないとき、薫にだけ聞こえるように。
 お母さん、と。
 振り返った薫は困ったような顔でしゃがむと、四季と視線を合わせて「だめですよ」と言った。

「四季さんのお母様は、四季さんを産んだ綾子さんお一人です。私をお母さんと呼んでは、綾子さんへの失礼にあたります」
「……もういないぞ」

 四季にとって母親は既に死んだひとだ。覚えていることなどなにもない。周囲には母親の親族もおらず、母親を偲ぶひとも殆どいない。四季を産んですぐに亡くなったから、四季との思い出話というのもないに等しい。

「いなくなりたくて、いなくなったんじゃありません。綾子さんが生きていたら、四季さんをどれだけ可愛がったでしょう。どれだけ大切に慈しんだでしょう。
 ひょっとしたら四季さんはしょっぱい卵焼きが好きになっていたかもしれない。スイートポテトが好きになっていたかもしれない。人参のしりしりが好きになっていたかもしれない。
 綾子さんは自分がいなくなってしまってでも、あなたにいてほしいと願ったのです。その綾子さんがお母様でなくて、一体誰が四季さんのお母様だというの。
 だから……ね、忘れてはいけませんよ。私は、四季さんのお母様ではないのです」

 そろそろ六つを数えようかという四季に、薫の話は少し難しかったけれど、なにを言いたいのかは分かった。
 薫は綾子に敬意を抱いており、薫は四季の母親になれず、綾子こそが四季の母親なのだ。
 寂しいという気持ちが涙になって溢れそうだった。
 だって、どうしたって綾子は死んでいるし、薫は母親になれないという。ならば、四季に母親というひとはいないままだ。

「薫、さんは……綾子を知ってるのか……?」

 母親を呼び捨てにしても、薫は怒らなかった。
 神妙な顔で頷くばかりだ。

「……存じております」
「どんなひと?」

 誰もが厳しい女と言っていた。誰もが千歳を深く愛していたと言っていた。
 薫はどこか夢見るように宙へ視線を浮かべ、とろりと微笑んだ。

「とても美しい……恋をしてしまいそうなほど直向きで美しい方でしたよ」
「……綾子と、ともだちだった?」

 薫が声を上げて笑った。
 着物の袖で口元を隠してころころと楽しげに笑う薫は、目尻に涙まで浮かべていた。

「そうだったら素敵だったわねえ。でも、残念ながら私は嫌われていましたから」
「嫌われてたのに……褒めるのか?」

 美しい、なんて。

「ええ、だってあの方、ほんとうにお美しかった。ただ、ね……ふふ、だめ。おかしいったら……!」
「なに。ねえ、薫さん、なんなんだぞ!」
「ふふふ! だぁめ。内緒、内緒ですよ。ふふ、あはは!」

 袖を掴んで揺さぶっても、薫は笑ったまま「四季さんが大きくなったら教えてあげます」と誤魔化して。
 四季はその後も何度か訊いたけれど、結局答えはもらえないまま月日は過ぎ去り。
 答えは聞きそびれたまま、叶わなくなったのだ。

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