小説
三話
開店前の薫の店で濡れたタオルを何枚も使って体を拭い、手当てを受けた貫之は「ごめんなさい」と薫に謝った。
「どうしたの」
「迷惑、かけたから」
「そう思うならなにもしないわ」
貫之のべとつく髪を構わず撫でて薫は微笑むが、その笑みは困ったように曇ったものになる。
「ねえ、貫之」
「なに」
「あなた、お母様が好き?」
「大嫌い」
即答する。
こどもにとって親が神様だとか、無条件で特別だとか、信じている輩がいることを貫之は知っているけれど、それだけに反吐が出る。
こどもは親の死を心から願うことがあるし、できるのだ。もちろん、行動に移すことも。
薫は「そう」と頷いて、迷うように視線を揺らした。
「あのね……あなたのお母様、いまいい噂を聞かないのよ」
「いい噂なんてあるときがないでしょ」
「……もっと、よ。このままじゃ、よくないことが起きるわ。そのとき貫之、あなたもどうなるか分からない」
染み込んできた薫の言葉に、貫之は唇を噛み締める。
くそったれな親のもとに生まれて、今度はくそったれな親の所為で死にそうになっている。薫がいうからには、事は深刻なのだろう。
ちくしょう、と呻くように吐き捨てた貫之が顔を覆う手を、薫が引き剥がした。
腰を曲げた薫と間近で見つめ合う。
凛とした目が、真っ直ぐに貫之を見つめていた。
「…………もし、貫之が誰かを頼ってもいいって思えるなら……ねえ、私のところへ来る?」
嘘のような言葉だ。
嘘であれば一瞬で貫之を殺すような毒だ。
「……ほんとうに?」
「お母様に話をつけて……場合によってはお金であなたを『買い取る』真似をすることになるから、それが嫌なら……」
「薫さん、迷惑じゃないの」
お金がかかるのなら、余計に。
貧乏がどれだけ人間性を追い詰めるか、貫之はよく知っている。金がどれだけ人間に必要なのか、よく、よく知っているのだ。
薫は繰り返した。
「そう思うなら、なにもしないわ」
止まったと思った涙が溢れる。
嘘みたいなひとだ。
薫が嘘つきだったなら、貫之は思い切って遠慮なく世の中を、人生を見限ることができるのに、薫はどうしたってこんなにも優しくて、貫之のことを救ってくれる。
ぽろぽろ零れる涙が止まらない。
声も出ないほどに泣いて、泣いて、呻くしかできない貫之はがくがくと頷いた。
貫之の人生は途中でぷっつりと途切れるか、この世の地獄を彷徨った挙げ句にあの世の地獄へ墜ちるだけなのだ。
ならば、たとえ束の間の幸福だったとしても、一瞬でも救われたという事実があるだけでいい。貫之は薫を選ぶ。
震えながら伸ばした貫之の手は掴まれ、引かれ、やせ細った全身を強く抱擁された。
(たとえなにがあっても、この記憶だけで生きていける)
恐る恐る薫の背中へ腕を回し、拒まれないことに貫之はまた泣いた。
声を上げて泣いた。
生まれたばかりのように。
それから薫は強面の男を連れて母親に会いに行った。貫之もついていくと言ったのだけど「お母様に伝えたいことがあるなら連れて行くわ」という言葉になにも浮かばなかった。
母親が貫之にぶつけるのは罵倒だけだろう。そして目の前で金のやり取りをするのならば、薫は貫之に見せたくないだろう。
だが、貫之が母親へ伝えたい言葉があるというのなら、それはいまの機会をおいて他にない。
面と向かう必要もなく、自分と母親は既に決別していたのだと理解した貫之は薫の店に留まり、薫が帰ってくるのを待った。
落ち着かないまま、しかし店で勝手をする気などない貫之はじっとして待っていたのだが、薫が帰ってきたのは数時間後。
うたた寝していた貫之は跳ね起きて薫のもとへ駆け寄った。
「薫さん、あのっ」
「貫之」
「はい」
「貫之って、いい名前ね」
「……変な名前だよ」
「そんなことないわ──あなたのお母様がつけてくださった名前よ」
薫は貫之という名前のとても字の上手い昔の人がいるのだと教えてくれた。
母親が貫之の名前にそんな由来を持たせたとは思えないが、薫は「だから、字も勉強しなきゃね。他にも勉強して頭がよくなると、できることが増えるのよ」と当たり前に貫之へ学をつけさせてくれるつもりでいた。
貫之は聞かない。
母親がなにか言っていたか、なんて。そんなことは聞いても意味がない。
母親と貫之の人生は、分かたれたのだ。
「あとね、あなたの名字だけど……」
「変わるの?」
頷く薫によると「園江」というものになりそうだとのこと。口に馴染みがない音だ。田中とか山田だったらよかったかといわれると、それもまたどうだろうという気がするけれど。
「そういえば、薫さんは?」
「私?」
「薫さんの名字」
「ないわ」
こうして店を持つという夢を語ったら勘当されたので、名乗ることのできる名字はないのだという。
「……じゃあ、俺が大きくなったら園江の名字あげる」
「あら、うれし。でも怒っちゃうひとがいるから、ごめんなさいね」
くすくす笑いながら言われた「怒っちゃうひと」が、怒ったら本気でまずいひとだと貫之が知ったのは後のこと。
貫之が薫のもとへ来るのに手を貸してくれたひとでもあるそのひとの名は叶千歳。後の弟の父親であった。
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