小説
四話



 黒い垂れ髪、白い面に頬は桜色で唇は赤、長い睫毛に縁取られた黒目がちな双眸はほんの僅か焦点がずれている。
 さぞかし名のある職人によるものであろう刺繍の施された着物をまとった幼心の貴婦人は、兄を見て、小父を見て、客人を見て、崩れ行く牡丹のように儚く印象的な笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ」

 一言挨拶を述べてぷつりと黙る彼女の耳元へ、隣へ並んでいた潔癖な風情のある眼鏡をかけた男が囁くと、彼女は数度頷いてもう一度可憐な唇を開く。

「ようこそ、いらっしゃいました! どうぞ、お上がり、ください」
「ああ、邪魔するぞ。菫」

 ぽん、と四季は稚い彼女、菫の頭へ手を置いて、慣れたように家のなかへ進む。
 振り返った夾士郎が「あれが俺の妹」と説明してくれて、次いで「隣にいたのが旦那。藤代鏡一」と続けるので、関東を代表するヤクザの組長と若頭と一緒に数時間を過ごすことになるのかと改めて実感し、静馬は喉が乾いていくような心地になった。
 珈琲淹れたいなあ、と慣れた日常へ触れたくなりながら、静馬は夾士郎に続いて家のなかへ進み、応接間のテーブルへ用意されていたカルピスに目を丸くする。

「お外、まだ暑いのでしょう? カルピス、美味しいから」

 無邪気に勧める菫。
 四季は早速ストローでカルピスを啜っているし、夾士郎も慣れた様子でソファに掛けて手招くので、静馬は躊躇したあとそっと彼の隣へ掛けた。
 カルピスは濃い目で、確かに美味しかった。

「本日は菫のためにご足労いただき、ありがとうございます」

 慇懃に頭を下げる鏡一に四季は鷹揚に手を振り「礼ならマスターにな」と余計なことを言うので、いつものように睨みそうになって慌てて静馬はなんてことないですよ、という顔を保つ。

「小父様、小父様。この方だあれ? 菫とお友達になってくださるの?」

 鏡一の隣へ座る菫が四季へ手を伸ばし、彼の袖を引く。鏡一は窘めようとしたが、四季が目で制すので目礼を返し事を見守る体制に入った。
 四季は宥めるように菫の肩を叩き、静馬へと目配せする。

「このひとは俺の知り合いでな、カフェの店長さんだぞ」
「白砂静馬です。テッセンっていう珈琲や紅茶を扱ったお店をやっています」

 バーのことは今敢えて言う必要はないだろう、と省いて自己紹介すれば、四季と静馬の言葉をまばたきしながらたっぷり数十秒かけて咀嚼した菫が、それこそ花咲くような笑みを見せた。
 鏡一が止める間もなくぱっと立ち上がり、静馬のもとへぱたぱたと移動した菫は、静馬の肩口の服を掴んでねだりごとをするかのように揺する。

「カフェの店長さんなのね? 美味しくて可愛い珈琲やきれいな紅茶があるの?」
「マスター、ラテアートできたか?」
「注文があればやる」
「可愛い珈琲あるみたいだぞ」

 きゃあ、と声を上げて菫が喜んだ。
 あのねあのね、と稚い風情で話し始める菫は、テレビで観た「カフェ」がどれも素敵であったこと、飲み物がどれも美味しそうであったこと、行ってみたいけれど知っているお店がないので残念だったことを語った。

「ケーキとかパフェとかはあんまり可愛いのないんですけど……」
「ケーキはね、尾崎さんが買ってきてくださるの。テレビで観たのも、他のも。でもね、飲み物はね、ないから」
「尾崎っつうのは菫の世話役でな、マスターの店に行くときは一緒に顔出すんで覚えててやってくれ。藤代、尾崎は?」
「呼んできます」

 程なく紹介された尾崎は、屈強な大男であった。菫と並ぶと彼女が華奢な細工人形かなにかのように見える。菫も外出が皆無というわけではないだろうから、尾崎のように外見でひとを散らすことができて実力もあるであろう人間が傍に必要なのだろう。

「菫、今日これからマスターの店に行くからな。そうしたら、尾崎と行けるようになるぞ」
「小父様、ほんとう? わあ、わああ、素敵ね! お兄ちゃん、聞いた? 私、カフェへ行くのよ」
「ああ、聞いたよ」
「お兄ちゃんはお留守番?」
「兄ちゃんも一緒だよ。今日だけな」

 静馬は眼前に手を翳した。
 妹を愛おしむ夾士郎の笑みは、たとえサングラスをかけていようともあまりにも眩すぎた。
 うっすら指の隙間から覗えば、夾士郎と菫以外の全員が顔を覆っている。
 静馬はずりずりと這うように四季のもとへ移動して、そっと彼の耳元へ唇を寄せる。

「おい、今更だが匂坂さんうちに来て大丈夫なのか。普通の店だぞ」

 テッセンに特殊な警備装置なんてものはない。
 四季は頷き「シャッターだけ閉めておいてもらえるか」と頼んできた。
 客がいるのにシャッターを下ろすというのはしたことがないが、夾士郎の存在を思えばそれが最良だろう。駐車場からは全員で囲んで移動するしかない。

「顔面一つで石油王みたいだな……」

 静馬の呟きに四季は意味深な笑みを浮かべ、溶けた氷で薄くなりはじめたカルピスをずこーっと啜った。

「じゃ、そろそろ行くから。菫、準備してこい」
「はい! 鏡一さん、鏡一さん。なにを着ればいいかしら」
「着替えはいいから、尾崎と鞄を持っておいで」

 頷いた菫が尾崎の手を引いて部屋からぱたぱたといなくなった後、鏡一が静馬へと向き直った。
 藤代鏡一。菫の夫。夾士郎の義弟。
 久巳組の若頭。
 僅かに張り詰めた顔になる静馬へ向かい、鏡一は僅かに頭を下げた。

「本日は妻のために我儘を聞いてくださり、ありがとうございます」

 一言の礼のみで頭を上げた鏡一であったが、彼は本来殆ど頭を下げる機会などないだろう。
 四季に対しては別だが、久巳組の若頭という立場は、母体である高槻会でもそれなりの立場であるはずだと静馬でも分かる。そも、鏡一自身が一つの組織の長という立場のはずだ。
 頭を下げられることを当然とする鏡一が、一介の店主に頭を下げる姿に静馬は四季の背中を見た。
 どうしてかは分からない。
 四季が頭を下げる姿なんて見たことはないはずなのに、静馬は思うのだ。
 そこに心からの誠意が必要なとき、四季は当然のように頭を下げる人間なのだろう、と。

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あきゅろす。
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