小説
七話
「とある陳腐なお話をしようか」
コンクリートに囲まれた部屋のなか、響く男の声に青年は瞼を開く。
ぐらりぐらりと揺れる視界のなかに、男が見えた。
「くそったれな西の畜生をお父さんに持つ隆成くんのお話だぞ」
ゆっくりと鮮明さを取り戻す視界は、男が笑みを浮かべていることを青年に教えた。
「隆成くんのお父さんは悪いことをした畜生の一匹だった。なので死んじまった。当然だな。惨めったらしく悲惨に嘆かわしく笑っちまうほど呆気なく死んだ。ざまあみろ!」
ぱちぱち手を叩きながらけらけら笑う男に合わせ、よく見れば彼の周囲にいた男たちも笑い出す。
けらけら。
げらげら。
げたげた。
ひひひひ。
はははは。
ひいひい。
ぜえぜえ。
ひゅうひゅう。
ごほっごほっ。
ぎいいぎいい。
ぐげえぐげえ。
「ぎゃああああああああああああッッッ!!!!」
耳を劈くような悲鳴に飛び上がりかけた青年の体は、しかしびくともしない。
気づいてみれば青年の体は椅子に座らされ、丁寧にていねいに拘束されていた。
首は有刺鉄線によって背もたれに固定され、腕は釘によって手すりへ打ち付けられ、足はベルトでぴったりと閉じられていた。
視線だけで己の状態を把握した青年は、ぎょろりと目玉を動かして男を見る。
異様なまでに晴れた視界のなか、男の人形のように上品な顔がくっきりと見える。記憶にある顔と適合する。
「はじめましてだぞ、工藤隆成……久巳組組長叶四季だ」
青年、工藤の見開いた両目が血走る。
四季がゆっくりと近づいてくる。コンクリートの床をこつこつと足音立てて、ゆっくり、ゆっくり。
動けない工藤の耳元へ、四季の唇が寄せられる。
「お前のくそったれな親父の田岡雄一なんだけどな、最期は糞尿塗れでぶらぶら揺れてたぞ」
ぶつりと工藤の頭のなかで何かが千切れる音がした。
「お、おおおおおおおおばええええええええええッッ!!!!」
椅子が揺れるけれど、それは微々たるものだ。工藤が全身全霊で暴れようとしているのに、体はちっとも言うことを聞かない。
そも、椅子に磔にされているような状況なのに、不思議と工藤の体は痛まなかった。舌もよく回らない。なにか麻酔の類を使われている。
「うちのことを随分と嗅ぎ回って、下のほうにまでちょっかい出したんだって? 関西に引っ込んでれば畜生のガキくらい見逃してたかもしれないのに……うちは馬鹿なガキのための自殺装置じゃないぞ?」
困ったような声音が工藤の神経を逆撫でする。
憎かった。四季が憎かった。
自分が今までどんな思いで生きてきたのか、仕立ての良いスーツに身を包んだ目の前の男には分かるまい。
湧き上がる殺意のままに暴れていくうちに、腕に首にじんじんとした痺れが走り始めたけれど、工藤にはそんなもの構っていられない。
四季を殺さなくては気が済まなかった。
「ごおじでやる! おばえのぜいで! ごおじでやう!!」
「ええ? そんなに俺を殺したいのか? 熱烈で困っちゃうぞ」
「おばえがどおざんを! があざんをごおじだんだ!! ぜっだいゆるざええッごおじでやう!!」
工藤の叫び声に四季から表情が失くなった。
痛いほどの沈黙。
四季だけを射抜くように睨みつける工藤は気づかなかったけれど、四季の後ろに控えていた男たちは怯えすら宿した様子で緊張に全身を強張らせていた。
「ふふ」
沈黙を破ったのは笑い声。
続いてずるずるとなにかを引きずる音がして、彼は現れた。
鬼だ。
鬼がいた。
猟奇映画のように全身に血飛沫を浴びた男が、人間の片足を引きずりながら四季の隣へ並んだ。
鬼の目は沼底のように真っ暗なのに、抜身の刃にも似た爛々とした光を反射させている。
「準備、終わりました」
「ああ、ご苦労さんだぞ」
四季が頷くと、暗い目をした男がうっそりと工藤へ向かって囁いた。
「此処にある『肉』を一つ食べ終える毎にお薬の追加をあげるわね?」
「……は?」
「益岡」
呼ばれ、強面の男が注射器を携えて進み出てくる。
得も知れぬ悪寒が工藤の全身を貫く。
暴れようとするが相変わらず体は思うように動かないし、注射器の針が向けられた腕は固定されている。眼球だけをぎょろぎょろ動かして見下ろす先、無情にも薬品が工藤の体へと投与された。
気づけば四季と暗い目をした男は部屋から出ていくところであり、工藤のもとへは残された数名の男がペンチなどを使って遠慮のない動きで釘を引っこ抜きにかかり、拘束を外し始めた。
解放されたのならすぐにでも飛びかかってやると思っても、拘束という支えをなくした工藤の体はぐんにゃりと椅子から崩れ落ちてしまう。
男たちは工藤を一瞥するとぞろぞろと部屋から出ていく。
鍵のかけられた音を聞きながら、這いつくばる工藤が顔を上げると拘束されていたときは見えなかった部屋の全貌を漸く目の当たりにできた。
部屋にはまだひとがいた。
よくよく見れば、彼らは工藤が協力を取り付けた半グレたちであった。
皆、工藤のように床へ這い蹲っている。
ただ、這い蹲っている理由は薬物を使われた工藤とは違うようだ。
血溜まりに伏せる彼らは、皆片足がなかった。
時折聞こえる呻き声、上下する体から生きていることは分かるし、失った足が止血されていることから投げやりに延命の意思も窺えるが、まともな治療を受けなければ感染症を引き起こす可能性もあるだろう。環境は清潔とは言い難いし、部屋は段々蒸し暑くなってきていた。
そこで、蘇る言葉。
「肉……?」
暗い目をした男はなんと言っていただろうか。
思い出し、食料などどこにも見受けられない部屋という環境、状況と照らし合わせて工藤の全身を怖気が走る。
だが、それも束の間、工藤の意識はがくん、と混濁する。
曖昧になる現実感、薄れゆく恐れと理性、押し寄せるのは無闇矢鱈な多幸感。
「あ……え? え、えへへ……っ?」
回る、回る、世界が回る。
極彩色に天地は引っ繰り返り、夢も現も区別はつかない。
痛みも苦しみも、復讐心すら溶け落ちて、工藤は床の上で大の字で転がる。
「へへ……っあへへへへへ……っ」
父親が死んでから、こんなに幸せになれたのは初めてであった。
けれど、幸福は永遠には続かない。
理性の復帰は絶望と共に。
喉が乾いて仕方がないのに水の一滴もなく、乾いた腕の瘡蓋を舐めても生臭いばかりで吐き気がした。
味わった幸福の分だけ工藤に押し寄せたのは心細さ。
あんなにも滾っていた復讐心さえ、もう一度あの幸福を願う心に負けてしまう。
四季を殺したいと思うのに、そのための方法を探す考えが上手くできない。またあの多幸感に包まれたいと願う心に集中力は消し飛ばされてしまう。
どうしたらいいのだろうか。
どうすればまた薬を。違う。四季を。薬。違う。四季。薬。薬。
考えて、考え続けて、時間ばかりが経過する。
水はない。食べるものはない。
気にする余裕のなかった空腹感が足音立てて近づくほどに、時間が経った。室内にあった喘鳴は、助けを求める声は、虫の吐息へと変わっている。
腹が空いた。
「…………せや、部屋から出るんは……肉、食べな……」
肉を食べれば部屋から出すと言っていた。
肉を食べれば薬をくれると言っていた。
肉を全部食べれば。
肉を食べれば。
肉を。
肉。
──ぞぶり。
悲鳴が上がる。
ばたばた暴れてただでさえ固くて食べ難いのに余計に食べられない。
だから、椅子で殴った。
殴った。
殴った。
何度も殴った。
そうだ、肉は叩くと美味しいんだとテレビで言っていた。
満遍なく全身を滅多打ちにした。
動かなくなった肉に齧りつく。
硬いし酸っぱいし生臭い。血は液体のはずなのにべたべたしてちっとも喉が潤わない。でも食べる。気持ち悪くて吐く。吐いたらまた食べる。
手足は硬いが、腹の中身は柔らかい。ただ臭かった。物凄く臭かった。どくどく脈打つのは心臓だろうか。齧るとぶしゃりと弾けて潰れて、妙に楽しい気分になる。癖になりそうだ。
全部食べなければ薬がもらえない。
たくさん、たくさんの時間をかけて丸々一つ食べ終わった後、ドアに付いている差入口から注射器が転がされた。
ああ、やはりこれでいいのだ。
工藤はまた幸せになれたけれど、幸せが終われば悲しくて怖くて、幸せになりたくて肉を食べる。
ろくに動けないくせに逃げ回る肉を捕まえる。頭がふわふわと夢見心地のときは叩くと音が鳴るのが楽しくて、何度も振ったり蹴ったり、引きずり回したり。
噛み付いてきた肉もあった。すごくすごく腹が立った。食べるのは工藤であって肉じゃない。工藤は肉じゃない。その肉は細かく細かく千切って食べた。
肉を食べると吐いてしまうし、腹も痛くなる。下半身は既にどろどろだ。
でも、舌にねばつく肉の味は、少しずつ美味く感じるようになった。
そんな肉も、残り少ない。
肉がなければ幸せになれない。
最後の肉を食べ終えた工藤は途方に暮れて辺りを見渡し、骸骨のような顔で笑う。
すぐ近くに肉がまだあった。
「いただきます」
ところどころ腐り落ちた肉は簡単に千切れて落ちて、夢中で食べるうちに工藤の意識は真っ暗になる。
部屋に残ったのは経過した時間に季節も相俟って腐敗している食い散らかされた肉塊、糞尿と吐瀉物、あとは壊死した腹に両手を突っ込んだ死体が一つ。
着火剤撒いて火を点けに来た男たちは大いに顔を顰める。
「クロコダイルだけは手を出さねえ」
違法薬物を自ら摂取する男の呟きに、全員が頷いた。
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