小説
四話



 隆成の母は所謂内縁の妻というものであった。
 婚姻届に署名することこそなかったけれど、相手と母は夫婦のようであったし、相手と隆成は親子のようであった。事実、相手と隆成に血の繋がりはある。

「これ持って、お前らは今すぐに出て行け」

 夫婦のようであったのだ。
 相手は鞄に札束を幾つか詰めたものを突きつけて、母親へ厳しい声で告げた。
 青い顔で縋る母親を振り払い「出て行け、金輪際顔を見せるな」と繰り返す相手の顔は、とてもではないが昨日まで見せていたものと同じには見えない。
 母親が泣こうがなにを言おうが無駄であった。
 隆成が泣こうが手を伸ばそうが無駄であった。
 昨日まで届いていたはずの一切が、相手から拒絶された。
 母親に連れられ、慣れ親しんだ街を離れて狭いアパートで暮らし始めて暫く。
 隆成はよく覚えている。
 週刊誌を手に号泣し、崩れ落ちる母親の姿。
 ばしん、ばしん、と床を叩いて相手の名前を叫ぶ母親の姿。
 隣の住人が怒鳴り込んでも母親のあまりな姿に逆に気圧され、何事かを吐き捨てていなくなった。

「たかちゃん、お父さん、死んじゃった」

 泣いて泣いて日も暮れて真っ暗な部屋のなか、母親がようやくぽつりと呟いた。
 一つ零れ落ちれば、次は雨のように。
「死んじゃった、殺された、ちくしょう、あいつら、殺しやがった、あたしの男、ちくしょう、ちくしょう」
 真っ黒な染みができる雨のような母親の呟きは、たった一つを対象にして向けられていた。

「久巳組の所為や」

 母親の怨嗟をまともに理解できたのは隆成がもう少し大きく育ってからであったけれど、理解は言葉でではなく身を以てしたものだった。
 隆成が幼いうちは数度引っ越しを経験した。
 狭いアパートで息を潜めるように生活した。
 母親は夜の仕事には絶対に手を出さず、昼の仕事を幾つも掛け持ちして幼心にある面影からは想像もできないほど痩せ細っていった。
 常にぎりぎりまで切羽詰った生活のなかでも、母親は隆成を必死に育ててくれた。
 自分のことなんて全く顧みず。

「あんたはあのひとによう似てる。立派に育ったなあ」

 実年齢よりも十歳は老けて見える顔をくちゃくちゃにして微笑む母親が息を引き取ったのは、隆成が成人を目前にしていた冬であった。



「永長光也ってあんた?」

 馴れ馴れしい誰何に、光也は隠しもせず顔を顰めた。
 静馬に頼まれた買い物帰りの光也の前へ立ち塞がるのは、年上であろう青年。
 青年は光也にも見覚えのある荒んだ目をしていて、にやにやした笑みを浮かべながらもふとすれば激昂しかねない苛立ちを滲ませていた。

「へー、その格好マジでバーの店員やってんだ」

 青年が揶揄するように見つめるのは、光也が身につけているカマーエプロン。「如何にも店の買い出しですって感じでいいじゃないっすか!」と光也が渋る静馬を押して着たままテッセンを出てきたのだ。
 光也にとってこのカマーエプロンは特別だ。着るごとに自分は変わるのだと身が引き締まる。揶揄されて愉快な気分では、当然ない。

「うっぜえな。失せろよ」
「か……ごめんごめん、怒んないでよ。あのさ、訊きたいことがあるんだけど」
「うぜえつってんだろ。第一てめえ誰だよ」
「最近、熊本のダチになった工藤って云うんだ」

 光也は強かに舌打ちをする。
 久巳組のことを訊いているやつがいる、という話は真境名から聞いたばかりだ。そこへ熊本の名前。十中八九目の前の工藤がその当人だろう。
 益々相手をするのが嫌になって光也は工藤を迂回するように歩きだすが、すれ違う瞬間に腕を掴まれた。
 揺れた買い物袋は落とすことはなかったけれど、光也は声を荒げる。

「俺に関わんじゃねえっ」
「ちょっと話聞かせてもらうだけだって! な、ええやろ?」

 光也は工藤の手を振り払い、今度こそ歩き始める。
 荒い足取りで進む光也に並んで歩きながら、工藤は「なあなあ」と質問をぶつけた。

「久巳組のヤクザに追われたってマジ? なんで生きてんの? あいつらそんななまっちょろいの? 事務所とか連れて行かれた? どんなひとに会った? なあ、少しくらい教えろよっ」

 苛立ちを顕に肩を掴もうとしてくる手を叩き落として、光也は怒鳴り声を上げた。

「ヤクザがなまっちょろいわけねえだろッッ! 組長まで出てきて殺されるところだったんだよ!! 二度と思い出させんなッ」

 工藤を突き飛ばして走り出す光也は、強くつよく歯を食いしばる。
 いまだって恐ろしい気持ちは消えない。あのとき味わった恐怖はこびりついて、寝入りばなに肩を叩いてくる。
 バーの時間にも時折顔を出すようになった四季の存在は光也の心を強く引っ掻くけれど、視界に入る静馬の存在が支えになっている。
 静馬のおかげで拾えた命だった。静馬のおかげで戻り始めた道だった。その静馬が平然として其処にいることが、光也にとってどれだけ心強いことだろうか。
 光也が当たり前に生きていられるのは、当たり前のことでできていられるのは、静馬がいてくれたからだ。
 だから、ひっかき傷に爪を立てられて痛む衝動のまま、光也はテッセンへと走る。


「……あの程度の問題に組長出てきたってマジなんか」

 光也の背中を針のような目で見つめる工藤は、携帯端末を取り出した。
「此処」へ来るまでに随分と増えた良くない繋がりへと、工藤は躊躇なく連絡する。
 止めるひとも嗜めるひとも工藤にはもういない。
 全部、ぜんぶ奪われた。
 工藤を引き止めるひとたちが願ったものを踏み躙りながら、工藤は止まらず走り続ける。
 己が正しいと信じる復讐のために。

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