小説
三話
ある古ぼけた店の地下で老人がふたり、それぞれ椅子に腰掛けながら本を読んでいた。
地下室は部屋としての体裁があまり整っていない。椅子は乱雑に置かれているし、テーブルは布が被せられている。隅には埃が溜まっていた。
そんな物置のような地下室で、老人たちは甚く寛いだ様子を見せているのだ。
「また厄介事だね。縁を切らせたらどうだい」
「俺があと三十若ければそうしていた」
紳士然とした老人は谷川俊太郎の詩集を一頁捲る。スキャットまで。
「俺もお前も爺だ。やることやって爺になったが、明日の知れなさは若者の比じゃない。こんがらがった末にぶつ切りにした糸の始末を、俺は見ることができやしない。半端な手出し、半端な仕事。寒気がする」
若い頃はさぞかし美丈夫であっただろうと面影窺わせる老人は、真面目ぶった顔で少女漫画を読んでいる。野垂れ死んでも私の人生だと女が言い切った。
どんな死を迎えるのか、理解している人間は多くない。
何時死ぬのかさえ定かではないことが、普通なのだ。
死に物狂いという言葉がある。
老人の人生は斯くあるべき、そうでなければ到底「老人」になどなれないようなものであったけれど、老人が死に物狂いになったことはない。
紳士然とした老人に向けたように、やることをやっただけ。
手元の書籍の頁を捲るような人生の送り方を、しかし退屈と称するには老人の人生は仕掛け本のようで似合わない。
捲ってきた頁は色鮮やかだ。時折頁を飛び出すものもある。
そんな老人に残された頁は多くない。
「俺は死ぬよ。もうすぐ」
「お前が死ぬなら、私も死ぬんだろう」
紳士然とした老人はスキャットまでをもう一度読む。
老人と紳士然とした老人の付き合いは長い。この世に生きてる人間のなかでは、お互いがお互いにとって一番長い付き合いになってしまった。
だからといって抱く感情、向ける感情が重いわけでも多いわけでもない。
紳士然とした老人の言葉には哀惜も執着もないのだ。
「今度のことはどちらにせよ動く必要もない」
老人は立ち上がり、紳士然とした老人を置いて地下室から上がっていく。
紳士然とした老人は詩集の頁を捲り続ける。一頁いち頁のなかで言葉は踊る。音楽のように。
「本部長」
益岡は見かけた背中を呼び止める。
振り返った彼は年の頃は益岡と同じほどに見え、中性的な顔立ちに相変わらず暗い底なし沼のように光のない目をしていて、面と向かって相対すると恐ろしさこそいまは覚えないが、く、と息の詰まるような感覚を益岡に与えた。
「なんだ」
「お忙しいところすみません。ご報告したいことが」
本部長は時間をくれるという合図だろう、ピアニッシモを一本取るとライターを取り出す益岡を制して自分で火を点けた。
軽く顎で促された益岡は漂う紫煙のなかで、下から上がってきた話のなかでどうにも気になる点を本部長へと切り出す。
「半グレが?」
「はい。最近どうもはしゃいでいるようで。下部組織の末端が小競り合いになったという話もあります。それからどうもこちらに移動してきている気配があり、調子づいているようならうちにも」
「益岡ぁ」
益岡の話を遮り、本部長はがしり、とピアニッシモを噛み締めた。無残に折れたピアニッシモを携帯灰皿へ押し付けた本部長は、相変わらず光のない目でゆうらりと宙を見つめる。
「末端だろうがヤクザがガキと対等になぁにやり合ってんだよ。馬鹿か。うちにもちょっかい出す? は? ちょっかい出されてから動いてどうすんだよ。なんでこっちが馬鹿ガキのチキンレースの相手してやるんだよ。シマで騒いでる段階で追い出せ。くだらねえ話で呼び止めてんじゃねえぞ」
あくまで声音は変わらず吐き捨てて背を向けようとした本部長を、益岡は慌てて止める。
僅かに眉根を寄せて振り返る本部長は、この話の肝心な部分をまだ聞いていないのだ。益岡が敢えてすぐに話さなかったというのもある。
本部長にこの話をするのは、少し勇気が必要であった。
きっと、彼は人が変わるから。
「本部長……」
「……早くしろ」
「動き回ってる半グレのなかで中心になってるのが、どうも関西出身のやつで」
針の先で突いたような光。
「調べたところ、解散した高島会の元若頭……田岡雄一の息子、です」
どろりとした底なし沼に光が宿る。
何故だろうか。
抜き身の刃のような光が灯った双眸は、底なし沼よりも尚々暗く重く深い。
銃口を突きつけられているかのような緊張感に背中へ汗を伝わせる益岡の前、本部長が唇を短く震わせた。
ぎちィッ!
直後、引き裂くように浮かべられた壮絶な笑みに益岡が悲鳴を上げなかったのは奇跡だ。いや、上げなかったのではない。上げられなかった。度を超えた恐怖は悲鳴さえ奪い、修羅場を潜ってきた男の全身でさえも束縛する。
「益岡」
「は、い」
「前言撤回よ。追い出すのはなし。ちょっかい出すまで待ちなさい。いえ、ちょっかい出させなさい」
何故、と問うことは恐ろしすぎたが、本部長は鬼のような笑みを浮かべたまま謳う。
「一人ふたりなら兎も角、全殺しにするなら大義名分くらい、ねえ? ああ、そうだ。『あの子』にも伝えなくちゃ。やることがたくさんだわ。忙しくなるわね。益岡もいつでも動けるようにしておいてちょうだい。ああ、まったく。いやだわ、ほんとうに、いやだわ。あっちで最底辺這い蹲ってるなら気づかなかったかもしれないのに、こっちへ来るなんてそういうことね? そういうことよね?」
くすくす笑う声はケタケタ笑う声へ。
「心から殺してあげるわッッッ!!!!!!」
殺したいという欲望を高らかにぶち撒け、殺すという決定を重々と下す狂人の名を園江貫之と云う。
益岡はいっそ上機嫌に見えるほど浮かれた様子で去っていく貫之の背中を見つめ、詰めていた息を吐き出す。
狂人も気違いも頭のおかしい奴も散々見てきた。
それでも、貫之の底深さを強調するばかりの真っ黒に輝く双眸ほど狂ったものを、益岡は知らない。
(あのひとはきっと、ほんとうの意味で正気に戻ることはないんだろう)
憐れには思わない。
ただ、絶対にああはなりたくなかった。
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