小説
一話
四季は震えた。
片手で口元を覆い、片手で静馬を指差す。
「……ひとを指差すんじゃねえよ」
ぷい、とそっぽを向く静馬は、四季が愕然としている理由を自覚していたけれど、自分から口に出すなどできない。
ドア近くで立ち尽くしていた四季が素早くカウンターへと近づき、ばん、とカウンターへ両手を突く。
「マスターはいつからそんなミーハーになったんだ!!」
「うるせえなっ、放っておけよ!!」
静馬の首元を飾るクロスタイ、それは以前までなかったものであった。
四季は静馬がクロスタイを結ぶようになった切っ掛けを察している。自分が原因の半分といってもいいが、いえば静馬は鼻で笑うだろう。
「そんなに中条がいいのか!」
静馬は口をきゅっと閉じて小さく頷いた。四季は額に手を当てて天井を仰ぐ。
四季が静馬の誕生日プレゼントに彼の憧れの人物である中条を紹介したのは、つい先日のことだ。
大層感激している様子を目の当たりにしていた四季だが、まさか同じようにクロスタイをつけだすほどとは思わなかった。
四季の知る限り静馬の首元はずっと寂しいままであった。今回クロスタイをつけている姿を見れば似合っているし、そのほうがいいとも思うが切っ掛けがいただけない。
「こんなことならおとなしくクラブに連れて行くんだったぞ……」
「俺は今回のことでほんのりお前のことが好きになった」
「んんん……!」
四季はちょろいと自覚しつつも大体のことがどうでもよくなり、幾分落ち着いた様子で止まり木へと腰掛ける。
そうだ、目くじらを立てるようなことではない。中条は逆さリング留めであったが、静馬は基本のピン留めという違いもある。完全なお揃いではない。大丈夫、と四季は自分に言い聞かせる。
「そうだぞ……なんならこの機会にピンやブローチを贈るって手もある……あわよくば一緒に選びに行くのも……」
「お客様、注文はお決まりですか」
「エスプレッソ!!」
妄想へ突入しかけた四季を遮る静馬の冷たい声に、四季は舌打ち混じりに応える。
はいはいと二つ返事で応じる静馬の背中に唇を尖らせる四季は、しかしひたひたと押し寄せる喜びに心を満たしていた。
自分の行いで好きな相手に喜んでもらうことは嬉しい。
単純なことだ。
好きなひとが、大事なひとが、目の前で笑っていてくれることの得難さを、四季はよく知っている。
それは決して当然のことなどではない。
ある日突然、あっという間に失われてしまうもの。
目の前で崩れ去ってしまうような、脆いものなのだ。
閉ざした瞼に焼き付く光景は、四季が抱いた幸福を冷たく凍らせ、煮え滾った憎悪に変える。
終わったことだ。
終わらせたことだ。
いまは、もう、ただの。
「お待たせしました……寝てんのか、てめえ」
はっと瞼を開けた四季は、思わぬほど近い距離に静馬の顔を見てぱちくりとまばたきをする。
「……そのままキッスしてくれていいぞ」
「寝ぼけてんだな、帰れ」
「目覚ましにエスプレッソくれ」
「味わえよ」
四季の顔を覗き込んでいた静馬は身を起こし、デミタスをずい、と突きつける。
立ち上る香りにほっとして、四季は暫くデミタスを片手にクレマを見つめた。
「外、暑いか?」
「ん?」
静馬が何気ない世間話を持ちかけるのは珍しい。
ほぼ一日店内にいるので、季節の移り変わりに疎くなるといつか言っていたな、と四季は思い出し、駐車場からテッセンまでの距離を思い起こしながら曖昧に頷く。
「そこまでじゃないが、今年も暑くなりそうだとは思うぞ」
「夏は辛いな。夏バテには気をつけろよ、不摂生の四十路」
「夏バテになってる暇もないんだぞ」
「そいつはおっかないこって」
そうだ、と四季は思いついて静馬へ訊ねる。
「テッセンに夏季休暇は?」
「一応ある。墓参り行きたいからな」
静馬は両父母どちら側の祖母も亡くなっているし、母方の祖父も同様だと書面で四季は知っている。
面倒がらずに墓参りへ自主的に赴く姿勢の静馬に、仲が良かったのだとも知れた。
つくづく静馬は普通の家庭で育ったのだな、と四季は感じる。
身内が誰であれ、何であれ、静馬の育ち方は健康だ。
「マスター」
「んー?」
「今日も愛してるぞ」
四季は敢えて静馬の反応を窺わぬままエスプレッソを飲む。
どうしてか、味がよく分からなかった。
青年はがつがつと写真にカッターを突き立てていた。
俗な週刊誌に映るのは、カメラのほうを冷たく一瞥する人形のように上品な面差しの男。
人形のように人の心を持たない男。
青年の人生を滅茶苦茶にした悪魔。
高い権力の座に就いて血反吐に塗れた金を積み上げている男の姿を、青年は病的なまでにめった刺しにする。
「殺したる……殺したる……絶対に許さへん……引きずり落として絶望させたる……俺が、俺たちが味わった苦しみを今度はお前に味わわせたるッ!」
繰り返す復讐の怨嗟。
ばきり、と音を立てて折れたカッターの刃が飛んで、床に転がる。睨みつける青年の眼差しは脆い刃などよりもずっと鋭かった。
「絶対に殺したるからなぁ……叶四季ぃッッ!!!」
固い決意を以って関西から関東へやってきた青年は、細切れになった頁を雑誌諸共引き裂いた。
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