小説
三話



 豪奢なホテルにも似た入り口を颯爽と歩いていく四季の隣を、静馬は我に返った状態で歩く。つまりはチベットスナギツネのような顔である。
 中条に会えるという興奮は、いざホストクラブへ辿り着いたら一時的に吹っ飛んだ。
 店名はGRACEとあり、確かにホストクラブと聞いて思い浮かべるようなギラギラと派手に主張する外装とは少々趣が異なっていたし、なかへ足を踏み入れても通路は品が良い。
 それでもいまは静かなだけで、華やかな夜の世界は扉一枚の向こうにあるのだ。
 開店前の準備もまだの時間、ドアの向こうの広々としたフロアのカウンター奥に、彼の姿はあった。
 ぴっしりと体の線を際立たせるヴェストに、襟元はクロスタイ。切れ長の目はしかし、片方が医療用ではない黒い幅広の眼帯で覆われている。真黒の髪を一部後ろに流した彼の片目が四季と静馬を捉え、柳葉のように細められた。

「ようこそ、GRACEへいらっしゃいました……と言いたいところだが、個人的な客だ。改めて、初めまして」

 ゆったりと、芳醇なワインから香りが立ち上るのにも似た笑みを浮かべる壮年の男は、しかし良い日本酒の後味のようにあっさりと名乗った。

「中条理人だ」

 静馬の憧れのひとが、そこにいた。

「久しぶりだぞ。仕事前に悪いな」
「いんや、構いやしねえさ。そっちが?」
「おう。マスター……まーすたー?」

 静馬は片手で顔を覆い、片手を突き出すという典型的な「待った」の姿勢になっていた。

「ちょっと待て、すぐ、すぐ立て直す」
「……普段と全然違うのどうかと思うぞ」
「うるさい。感激で涙出てきた」

 濡れる睫毛を数度まばたきして払うと、静馬はようやく中条へと向き直った。
 苦笑いを浮かべる中条に特大の羞恥心が襲いかかって死にそうになる静馬であるが、呼吸一つでどうにか持ち直し背筋を正す。

「白砂静馬です。お会いできて光栄です」
「いい名前だ。同業者だって?」

 肯定に一瞬の間ができてしまった。
 静馬にとって中条は同じバーテンダーと呼ぶには天地の差があるひとであり、もちろん自分が地にいるのである。
 中条の前で我もバーテンダーでござい、と簡単に名乗ることは、静馬にとって難しいのである。
 静馬の内心を察したか、中条は苦笑いを深める。

「やたらと尊敬してくれるやつはいるんだが、俺もただの人間さ。人並みに努力して人よりちょっとタイミングがよかったりした、ちょっとだけ恵まれてただけの人間」

 持てるものの傲慢だと吐き捨てるひともいるような台詞を、中条は大真面目に言う。
 座るよう促されたので、四季と並んで静馬は止まり木へと腰掛ける。自分がこちらへ腰掛けるのはどれほど振りになるだろうか、それが中条のカウンターだなんて、と静馬はひたひたと湧き上がる感動を噛み締める。
 ただの人間だと中条はいうけれど、静馬にとってはそうではないのだ。

「中条、早速一杯頼むぞ」
「もちろん」

 気さくな中条へ四季は遠慮なく「ジンフィズ頼むぞ」と言い、作り手の腕がよく現れるカクテルを快く承知した中条は静馬にも視線を向ける。

「え、あ──マティーニを……!」

 中条に一杯作ってもらえるのであれば、これ以外に静馬が望むものはない。

「そうくると思った」

 中条は愉快そうに口角を片方持ち上げる。
 隣で四季が不思議そうな顔をしているので、静馬は端的に応えた。

「世間的に中条さんの代名詞って言われてるんだよ」

 本人を前にしているので世間的に、としたが、静馬にとってもマティーニこそがバーテンダー中条理人を象徴するカクテルである。

「リヒト・マティーニ……是非飲ませてください」

 ジンとベルモットを四対一でステアーしオリーブを飾るのが一般的なマティーニであるが、中条の代名詞と謳われたマティーニの作り方はゴードンドライジンを四、マンチーノビアンコベルモットを一、レモンピール少々をシェイクして作られる。氷のように冷やされ、含まされた空気がまろやかな味わいを作り出し引っかかる癖を取り除くのだが、特徴までも奪い去りはしないのは中条の技量あってのものだ、と真似たバーテンダーたちは語る。
 静馬もかつて挑戦したことはあるが、己の技量までも計算しつくして初めて完成されるカクテルなのだと、惨敗とともに理解した。飲んだことはないけれど分かる、中条のマティーニはこれではない。口当たりがいいだけで、酒の持ち味が台無しになったカクテルが出来上がったのだ。

「中条はほんとうに自分のこと話さないな。マスターが喜びそうなもん調べたらお前が出てきただけでも驚いたってのに、伝家の宝刀まで隠し持ってんのかよ」
「話すよりも聞きたいほうなんでな」
「中条、俺もマティーニに変更で」
「はいよ」

 影響を受けやすい四季の勝手に、中条はちらりとも嫌な顔をしない。
 酒を、シェイカーを、手繰る手付きは鮮やかに。洗練された魔法のように。
 静馬は中条のカウンターの前にいることが初めて悔しくなった。同じ奥で、間近で、彼の手捌きを見たかった。
 食い入るように見つめる静馬へ中条が眉を上げ、ひそりと囁く。

「──昔の姿は、期待してくれるなよ」

 そして、静馬は見た。
 伝説のように謳われるひとの腕が、銀閃描いて舞う瞬間を。

「『あなたの人生を彩るものでありますように』」

 恭しく供されたグラス。
 静馬は震える手でそっと取ると、落とさぬよう、零さぬように口元へ運ぶ。
 ああ、と声が漏れた。
 どれだけこの味を夢見て、焦がれて、憧れただろう。
 嗚呼、と声が漏れた。
 どれだけこの味を再現したくて、追いつきたくて、悔しさに涙しただろう。
 でも。

「……悪い。シズマは俺に過ぎるほど心傾けてくれているんだろう。ほんとうにごめんな」

 中条はほんとうに申し訳なさそうに片目を伏せ、左腕を擦った。
 中条を知るバーテンダーに衝撃を齎した事件。
 中条が店を辞めた切っ掛けである事件。
 後遺症があるという噂はほんとうだったのだ。
 静馬では未だ届かぬこのグラスの一杯は、しかし完成されたリヒト・マティーニではないのだ。
 もう二度と、伝説は蘇らない。

「いいえ……中条さんが謝るようなことはなにも、なにもありません。俺は、俺が恋した一杯に出会えました。ありがとうございます」

 募りに募った憧れはきっと恋と同じであった。
 どんな姿でも相見えることができたのなら、それ以上に望むことはない。むしろ、足りないと思えるものが、僅かな傷こそが、尚更に愛おしかったのだと、どれだけ言葉を尽くせば言い表すことができるだろう。静馬には到底思いつかない。
 中条は嬉しそうにも切なそうにも見える眼差しで静馬を見つめ、ひとつ、唇の前で指を立てる。

「……一応、先輩として一言。
 美味い酒よりも愛される酒を作りな」
「愛される酒……」
「そう」

 中条はちらり、と視線を四季に向けて「もうできてんだろうけどよ」と続ける。

「なんだこれ、美味いけどお高く止まってるっつーか鼻持ちならねえっつーか、紳士紳士してるっつーか、澄ましたご令嬢かっつーの……マスターのほうが俺は好きだぞ」

 ぶつぶつと呟きながら複雑な顔でマティーニを飲む四季を静馬も見遣り、無言で片足を上げるとジョンロブを踏み抜いた。

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あきゅろす。
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