小説
一話
それはいつもどおりといってしまえる日常のなかから始まった。
「もうすぐマスターの誕生日じゃねえか!」
「今日も今日とてお前は頓痴気だな」
突如カウンターテーブルを叩いて立ち上がった四季に、静馬はひとまずデミタスが転げたりはしていないかと確認して安堵した。傷一つなく鎮座している。
「こうしちゃいられねえぞ、マスター次の火曜日空いてるか」
「空いてねえな」
「よし、じゃあ詳細決まったら連絡するぞ」
「お前どんだけ難聴なの?」
四季は静馬の嫌味にも堪えた様子はなく、そそくさと高額紙幣で支払いを済ませて店を出ていく。
静馬は嫌な予感しかしない。
次の火曜日、自分は一体なにに巻き込まれ、渦中に置かれるというのだろうか。
断固としてお断りしたい事態がほぼ決定している現実に、静馬は口汚く「くそったれ」と罵ることしかできない。
とてもではないが誕生日が祝われる気配漂っているとは思えないけれど、当の本人が特に祝われたいと思っていないのだ。
「──え、シズさん誕生日近いんすか? おめでとーござまっす!」
訂正である。
祝ってくれる相手によっては純粋に嬉しいものだ、と静馬はほっこりしながら光也のプリン状態になり始めた頭をわしゃわしゃ撫でる。
バーの開店準備前に顔を出した光也はそろそろ戦力としても頼もしくなってきており、幾つかのカクテルを任せることもある。光也も自分が作れるカクテルの注文が入ると静馬へ期待の眼差しを向けてきて、やる気も上々だ。
「シズさん幾つになるんすか?」
「二十八」
「思ったより老けてるんすね! 結婚とかしないんすか?」
「お前ー、そういうとこだぞー」
ぱぁんっ、といい音だけする絶妙な力加減で光也の頭を引っ叩き、微妙なお年頃の静馬はしみじみと年齢を実感する。
父親が結婚して子持ちになった年齢を超えて尚、独身ということに思うことがないわけではない。
そろそろ身を固めたいな、と考えることも偶にあるが、現在静馬は交際相手もいないのだ。
作ろうと働きかける気もあまりない。
結婚願望はあくまで願望止まりで、現実的な望みでもなかった。
理由がないわけではない。
「いまは手一杯なんだよ」
不思議そうな顔をする光也の尻を蹴飛ばして、静馬はさっさと準備を続ける。
火曜日まで心の準備もしようのない月曜日のことであった。
どうせなにかあるんだろうなあ、と思えば悠長に寝ているところを起こされることになるのも嫌で、静馬はぎりぎり午前中に起き出すと身支度を済ませてしまった。
適時を見計らっていたのか、丁度呼び鈴が鳴って渋々立ち上がった静馬がドアを開けたところで、もう一度呼び鈴を鳴らそうとしていた四季と視線が合う。
「……なんで起きてるんだぞ」
「ぶん殴っていいか?」
「寝起きのマスターを見る楽しみが……」
「ぶん殴っていいよな」
静馬は間髪を容れずに四季の脛を蹴り飛ばした。
「いってえ! 殴るって言ったくせにっ」
「絶対に攻撃したかったんだよ」
「そんな固い決意いらねえぞ……」
んもう、と言いながら裾をはたいた四季は、改めて静馬へ向き直るとにっこりと花開くような笑みを浮かべた。
「マスター、デートしようぜ」
「お断りします」
「分かった分かった。やれやれ、仕方のないマスターだぞ」
静馬はドアを閉めようとした。革靴がねじ込まれる。
「マスターだって出かける準備してるってことはそれなりに楽しみにしてたんだろっ」
「俺は諦めてたんであって楽しみにしてたんじゃねえ」
ぎりぎりとドアを挟んで押し合いへし合い。
しかし、革靴がねじ込める隙間があるということは、手のひら一つくらいなら入れることも可能なわけで、そうされると静馬はもう降参だ。
「お前ほんとう卑怯だよな……」
慌ててドアから手を離した静馬に喜んでドアを大開放した四季は、己の商売道具である手をなんだと思っているのだろうか。これも立派な恐喝ではないだろうか、と静馬は110番を頭に思い浮かべる。警察とは以前少々まずい関係になってしまったが、目の前のヤクザを通報したら赦してもらえる気がする。
「マスターが悪いこと考えてる気がするから早く出かけるぞ!」
「お前のやってることより悪いことって早々ねえよ」
「日本のヤクザの悪いことなんてたかが知れてるぞ。メキシコのマフィアを考えてみろよ」
「ガチモンの話はやめろ」
「俺もガチモンではあるんだけどなー」
出掛け際になんて会話だ、と思いながら静馬は一旦部屋のなかへ引き返して財布を尻ポケットへ突っ込んでから四季の待つ外へと出た。
「何処行くんだ?」
玄関に鍵をかけながら問えば、四季は「希望はあるか?」ともっと早く訊くべきであろうことを返す。
肩を上下させることを返事とすれば、四季は「じゃあ、予定通りでいくぞ」と静馬の腕をごく自然に引こうとしたので静馬もごく自然に避ける。
「その予定を訊いてんだよ」
「ついてからのお楽しみだぞ」
「お前と一緒ってだけで楽しみがほぼねえの分かってくれよ」
「……このマスター、ほんとうにかわいくねえぞ」
でも好き! と苛々したような顔で叫ぶので、静馬は「煩い!」と怒鳴り返した。
泣き真似をする四十路を伴って駐車場まで向かうのは、苦痛以外のなにものでもなかった。
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