小説
二話



 光也に練習をさせながら、静馬は一旦その場を離れた。自分の舌で覚えるのは大切だが、飲みすぎないようにも伝えてある。きちんと守るか不安であるが、それは光也が言いつけを破るのではないか、というよりも自分を過信して結果的に酔っ払ってしまうのではないかという不安であった。光也はまだ酒を楽しむというよりも、酔うことを楽しむ若者だ。
 静馬は携帯端末を見つめ、きゅ、と眉を寄せてからポケットへ戻した。
 なにも訊かない、としたのは静馬である。
 四季に対して問わないというだけではない。
 なにも知らない。知るべきではない。無知でこそ見逃されるものがあることを静馬は分かっている。
 ただ、己が無知でいることが恐ろしいのも事実で、少しなら、と思ってしまうのだ。
 四季はヤクザである。
 ヤクザとしての生き方に冷徹なヤクザである。
 どれほど四季から好意を伝えられても、その好意が四季の属する組織と天秤にかけられることはないのだと静馬は理解している。
 静馬はあの港の倉庫へ四季が来るものとは思っていなかった。期待していなかった。
 いっそ、来てほしくないとすら思っていたかもしれない。
 四季が来るということは、彼が動かざるを得ない状況になったということだ。
 金谷がどれだけの立場の人間かは分からないが、四季は久巳組の組長である。
 内心でどれだけ渦巻くものがあったとしても、S.Sビルの件は四季によって見逃されている。可しとされている。そこに否を唱えられるほどのものとは静馬は思わない。
 もし、そんなことが可能な立場であるならば、運転手のみを連れて人気のない場所で行動する必要などないだろう。
 己の命令に背いた部下を罰することは、四季の行動理由になる。
 けれども、静馬を生かしておく理由にはならない。
 あんなにも早く助ける理由にもならないのだ。
 不都合なものを見聞きし、体験した静馬が警察に駆け込んだらどうなるだろう。
 その場で久巳組組長の名が出たと証言したら、どうなるだろう。
 四季にとって、久巳組組長にとって、静馬が金谷に殺されてからゆっくりと金谷を殺すほうが余程都合がいいのだ。
 静馬でさえ分かるのに、四季は駆けつけた。
 静馬に恋慕しているからなどと、己の「道」が絡んだ四季にはなんの行動理由にもなりはしないであろう。
 ならば、何故だ。
 何故動いた。

「……誰になにを言われた……」

 思い浮かぶ顔はある。
 その顔は静馬にとって不都合だ。

「……どうしてだ」

 四季に不都合をかけることこそ不都合だと分からないひとではないはずだ。
 なにを目的にしているのか。
 分からないことだらけだ、と静馬が苦悶を顔に浮かべたとき、ふと脳裏へ蘇るものがあった。

「つるんで……入れ知恵?」

 金谷の言葉。
 呼んだ彼の女優を彷彿とさせる男を犬と呼び、彼と静馬が繋がりを持っていると確信しているかのような口振りであった。
 あの男がテッセンを訪れたのは一度きり、それ以降の接触はない。
 金谷は一度だけの接触を知っているというのか。四季に対する執念からありえなくはなさそうであるが、直後に四季が訪れている以上可能性としては高いと思えない。
 ならば、思い込みの理由はなんだ。

「あいつこそが吹き込まれた……?」

 もしも、そうだとするならば、静馬は意図して巻き込まれたことになる。
 静馬を「関係者」にしたいやつがいる。

「目的はなんだ……俺になにを、どうしようとしてる……」

 ざわざわと肌が粟立つような薄気味悪さを感じ、静馬はぐ、と唇を噛んだ。



「待たせたかな」

 公園のベンチに腰掛ける帽子を被った老人の傍に、同じく老人が腰掛ける。
 背中を丸めて日差しを心地よさそうに浴びる老人は、かけられた言葉に返事をすることなく足元の鳩に目を細めた。

「年寄りが無茶をするね」

 天気の話をするように揶揄するが、日向ぼっこに精を出す老人からは返事がない。

「お前は厳しいね」

 無駄話をするものではないが、世間話を口にしたのは老人にとってそれが無駄ではなかったからだ。

「あんなにもお前を慕ってくれているというのに、しまいには嫌われるよ」
「ちょっと転んで怪我をする程度の石なら見守るが、落ちれば即死の岩なんてどかすか制御するかしてやりたくてな」

 むにゃむにゃと寝言でも唱えているかのような様子で、初めて老人が応える。

「前言撤回。随分と甘くなったものだ。昔のお前ならそれくらい自分でさせていた」

 くつり、笑ったのはどちらの老人か。

「あれは孫だ。そういう風には育てていない。無責任に甘やかすのは祖父の特権だろう?」
「そうさ、無責任に甘やかすのは昔なじみの小父ちゃんの特権でもある」
「抜かせ、爺」
「お、やるか黒豆野郎」
「茶渋色に染めてやるよ」

 老人の足元、鳩がばさばさと飛び去った。
 立ち上がった老人はとんとん、と腰を叩き、膝が悪そうに時折足を引き摺って挨拶もなく公園を後にする。
 残る老人はむにゃむにゃと口を動かしながら、老人がモールス信号で残していった伝言を噛み砕く。
 先日動き回った人々が問題なく平素に戻ったようだ。久しく大きく動くことなどしていなかったが、機能は錆びついていないようで上々。
 こちらのことを調べている相手については、想定の範囲内。
 なにも、問題はない。

「この国は変わらんな」

 帽子を深く被り直した一瞬、老人の口角はぎちり、と怪物のように歪んだ。

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