小説
六話




 金谷は四季の登場にあからさまに狼狽した。

「お、親父……」
「……てめえ、俺の時間がどれだけ希少だと思ってんだ? あ? それをこんなくっっそくだらねえことに……何様だ、え、おい」

 静馬を一瞥もせずに吐き捨てる四季は、極々自然な仕草で腕時計を緩めると指の辺りに巻き付けて握り直した。
 金谷はかつん、かつん、と顔を顰めて近づいてくる四季に「俺は、俺は……っ」と意味をなさない呟きを繰り返しながら後ずさりするが、その速度は四季が詰めるほうが圧倒的に早い。
 一瞬の出来事であった。
 四季は拳鍔のように腕時計を巻き付けた拳で、金谷の顔面を正面から殴り飛ばした。

「ぶギっ」

 奇妙な悲鳴を上げてもんどり打つ金谷にしかし四季は欠片も同情を見せず、静馬の側に転がった彼の血に塗れた顔面にエナメルの靴先をめり込ませた。
 人の顔面が凹むところを、静馬は初めて目にした。

「……靴が汚れたぞ」

 嫌そうに呟き、四季は腕時計を巻いた手を見遣る。白い手は腕時計を巻いた周辺が赤くなっている。

「手も痛えぞ」
「親父、だから俺がやりますって」
「煩えぞ、俺は機嫌が悪いんだ」

 銃を構えたままの男が困った顔をするのも切り捨てて、四季は腕時計を放り捨てた。数十万から数百万はするだろう腕時計はがん、と床の上で跳ね、硬い音を立てる。
 四季は金谷のそばにしゃがみ込み、彼の髪を鷲掴みにして顔を起こした。ぶちぶちと音を立てて数本の髪が抜け落ちるのを静馬は目で追った。

「おい、ゴミクズ。なーんでこんなことしたんだ?」
「ぶ、ぶぇ……っ」
「ぶうぶう煩えなあ……豚か、てめえは」

 空いた片手で力いっぱい金谷の頬を引っ叩いた四季の手に、ぬるりと赤い血が付着する。
 四季は苛立っている様子であったが行動に勢いは見られず、冷静に暴力を振るっているのだと静馬には嫌でも分かった。
 これがヤクザなのだ。
 これが、ヤクザとしての四季なのだ。
 如何に経済ヤクザと謳われようと、行動しようと、根底にあるのは暴力を行使する恐ろしい存在。

「おで、おではぁっ、親父のだめにぃ……! ごんな、ごんなやづっ、親父に、親父を! おでが、俺が……っだから!」
「そうか、俺のためか」

 四季は咲った。

「──ありがた迷惑だぞ」

 金谷の髪を鷲掴みにしたまま、四季は彼の顔面を床へと叩きつけた。
 ごしゃり、となにかが潰れる音。
 じゅわりと、落とした林檎から果汁が広がるように、金谷の顔面を中心に真っ赤な血がじわりじわりと染み出していくのを静馬はじっと見ていた。

「連れて行け」
「はい」

 立ち上がった四季の命令に、いつの間にか銃をしまった男が金谷の足を持って引き摺っていく。
 刷毛で刷いたように赤い線がず、と続いて倉庫の外に消えるのを見送ってから、静馬は漸く上体を起こした。
 全身に走る痛みに顔を顰め、顰めた顔面の動きで頬が痛み、呻き声を上げる静馬に四季が初めて視線を向けた。

「よう」
「……よう」

 同じ挨拶を交わし、四季は静馬が後ろ手に拘束されているのに眉を顰めると後ろに回ってから舌打ちをした。

「タイラップかよ」

 外してくれようとしたらしい、と静馬は微かに笑う。

「自分で外すからいい」
「はあ?」

 あからさまに「どうやって」という様子の四季に立ち上がる手助けだけしてもらい、静馬は後ろ手をぐ、と持ち上げると勢いよく振り下ろして尻へ打ち付ける。
 ばん、と軽く音を立て、タイラップが弾け飛ぶ。
 床へ落ちたタイラップを、四季が半眼で見下ろす。

「外せるならとっとと外せよ……」
「相手の所持品も分かんねえのに迂闊なことできるか」

 ぷらぷらと手首を振って、静馬は全身の痛みを堪えながら倉庫の外へと向かう。

「白砂」

 背中にかかる声。

「んー?」

 静馬は振り返らず、ただ立ち止まって返事をする。

「なにも訊かないのか?」
「なにも訊かれたくないから」

 透徹した声音の問いに、静馬は直情的に答える。
 何故こんな目に遭ったのか、とか、助けに来てくれたのか、とか、そんなものは何も、一切、一つだって静馬は四季に訊ねるつもりがない。
 藪を突きたくない。
 蛇も鬼も、凡人には恐ろしいものだから。

「……訊いたら、問い詰めたら、要求したら?」
「俺は至って平凡な人間だ。逆さに振っても出るのは鼻血くらいなもんだ」

 銃を見た。
 過剰な暴力を見た。
 人が死んでいるかもしれない可能性を知った。
 ヤクザは理不尽だ。
 元々の原因が己にあっても、損が出れば強引にでも補填しようとする。それが、他者の血肉をえぐり取るような真似であっても。
 静馬は四季に己が被った理不尽の代償を請求しない。
 だから、四季にも不都合の代償を求めないでもらいたい。
 そんな取り引きを、ふたりは言葉少なく交わす。

「…………白砂」

 四季がもう一度静馬を呼んだとき、携帯端末が震える気配が背後からした。
 躊躇のあと、ため息。四季が応じる声がするのを聞きながら、静馬は歩を進める。

「……ありがとさんだぞ、匂坂──マスター!」

 駆け寄ってくる四季が強引に静馬の体を支えて歩きだすので静馬は一瞬口をひん曲げたが、すぐに見た目の割にしっかりした四季の体に寄りかかった。
 拘束されたまま殴られ、あちこち転がる羽目になったので妙な部分も痛んで歩くのも中々辛いのだ。

「病院に連れてくぞ」
「財布落としてんだけど。あー、くそ……交番に届けられてねえかな」
「カード入ってても問題なくしてやるから安心しろ。病院も俺持ちだぞ」

 静馬は眉を下げ、口端を上げる。

「それは怖いな」



 電話を受けて、男は真っ赤な紅を引いた唇を笑みの形に吊り上げる。

「ああ、よかった。勘違いしてもらった甲斐があるわ」

 にこにこと笑いながら男は幾つかの組織の名前を挙げ、通話相手へと伝える。

「ヤクザのいざこざに罪もない一般人が巻き込まれるだなんて……まったく、なんて憐れ。なんて悲劇。許されることではないわね。
 悲劇の主人公には人権団体と一緒にヤクザ排斥のための旗印になっていただきましょう」

 善意の皮を被った正義を振りかざす男の目は、どこまでも冷たく煮え滾っていた。

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