小説
二話



「今日は厭な夢を見ました」

 朝食の途中、隼がぽつりと呟いた。

「だからあんなに寝ぼけてたのか」
「寝ぼけてましたか」
「お前さん、普段はもう少し寝起きいいだろ」

 はち花粉の入ったヨーグルトを混ぜながら白が言えば、隼は苦笑いしながら蜂蜜トーストを半分に割く。ふわりと香る蜂蜜はりんごの花から採っているせいか、どことなくりんごの甘さに匂いが似ている。

「で、どんな夢を見たんだい」
「……誰かに追いかけられる夢です」
「誰か」
「ええ、誰か」

 二重になった層がすっかり分解されて少し粉っぽいヨーグルトを口に運び、白は「それで」と先を促した。

「それだけです。総長の声で目が覚めました」
「そうかい」
「夢ってひとに話せば正夢じゃなくなるんですよね?」
「そう言われているな」

 さくり、香ばしい蜂蜜トーストを齧り、隼はほうっと息を吐く。
 安堵したような表情を浮かべてもすぐに不安を滲ませる隼は、ほんとうは追いかけてきた「誰か」を知っているのかもしれない。白はそう考えたけれど、問いかけることはしない。

「大丈夫ですよね」
「なにが」
「いえ、なんでもないです」

 白は「そうか」と頷き、とろとろになったヨーグルトを飲み干した。


 奇妙な朝食のあと「出かけるか」と誘ってきた白に、隼は甘やかされてるなあと思いながらも頷いた。
 どこへ行くでもなく、すっかり色づいた紅葉を眺めながら歩くのは気分がすくようだった。

「秋ですね」
「そうだな。忙しい季節だよ」
「中間テストだの入試だの目白押しですからね」
「高校生っぽいなあ」
「高校生ですから」

 さくり、さくり、落ち葉を踏みしめ歩くのはこどもの頃よりも楽しくないと思って、隼は今朝見た夢を思い出して足を止める。
 立ち止まった隼に気付いているだろうに、白はゆったりとはしているものの歩みを止めることをしない。
 少しずつ遠ざかる背中を遮るように、視界をはらはらと落ち葉が舞っていく。
 急速に現実感が失われていく。
 現実感の代わりに迫るのは過去だ。
 夕焼け。
 ぬるい温度。
 化け物の顔。
 笑みを、あくまで笑みを浮かべる唇が動く。動く。動いて。

「織部さんッ」

 一拍遅れて叫んだ自分に気づいた隼は、呆然と顔を上げて振り返る白を見つめる。
 はらはらと舞う落ち葉にも似た飴色の目が、散るばかりの終わった命とはまるで違う力強さで隼を見ている。
 静寂は一瞬。

「――おいで」

 いつかのように伸ばされた手に、隼は考えるより早く駆け出した。蹴散らされた落ち葉が舞うのも構わず白の腕をとる。
 掴んで、抱き込むように、胸へ、肩口へ、隼は白に縋り付いた。

「織部さん、織部、さん」
「どうした、隼」
「大丈夫ですよね、絶対に大丈夫ですよね。だってもう十年以上前のことなんだ。今更、いまさら何か……」

 支離滅裂に言葉を繰り返す隼を白は掴まれていないほうの腕で抱きしめた。数回背中を擦り、ぽん、と叩く仕草はまるで親がこどもにするのによく似ている。
 おかしなことだ。
 白は同い年で、彼もまた年齢を考えれば庇護されるべき「こども」でしかないにもかかわらず、全く以って、おかしなことであった。

「行こうか」
「織部さん」
「おいで」

 白はじろじろと好奇の視線を送ってくる通行人をまるで気にせず、隼を腕に引っ付かせたまま歩き出す。
 ゆっくり、未だ定まらない隼の足取りに沿うような速さで。

「秋っていうのは色彩の所為かな、昔懐かしいものがあるね」

「俺も今朝、昔の夢を見たよ」と白は続ける。

「織部さんの昔」
「そう」
「どんなのですか」

 隼は俯いていた顔を上げるが、白の表情を見ることは叶わなかった。
 視界を覆うように被せられた白の手が、存外温かい熱を隼へ伝えていたので。

「海外へ行く前のこと」
「海外に行ってたんですか」
「長期休みのときにはほぼ毎回。その最後の夢」

 夏休みにも海外へ行っていたと聞いたけれど、それとは別なのだろうかと隼は不思議に思った。
 恐らく、共通の理由があって渡航していたのかもしれない。その理由があっての渡航が最後、ということなのだろう、と隼は当たりをつける。

「どこに行ったんですか」
「色々行ったよ。イギリス、フランス、ドイツ、中国、インド。他にも色々だけど、この辺りが多かった。日本の治安の良さは良いもんだね、中国に行ったときはほんとうに大変だったよ」

 しみじみとした声音で言う白の声だけが聞こえる。隼の視界は未だに覆われたまま。

「大丈夫だったんですよね?」
「俺がぴんしゃんしていないように見えるかい?」
「今は何も見えないです」

 笑う気配。

「ああ、そういえば。その時にきついつり目のお兄さんに会ったんだよ」

「多分、いまも元気なんだろうな」という白の言葉に曖昧な相槌を打とうとして、隼の耳に声がよみがえった。
 記憶は声から忘れるといわれているけれど、人それぞれなのか、それともものによるのか。
 まるで、たった今聴いたばかりかのように、その声は、音は隼の鼓膜を打ち、脳裏へ像を描くのだ。

(あの声は、言葉は――発音は)

 吹き荒ぶ風に晒されたように、隼はぐらりと目眩を感じて体を揺らす。
 ようやく晴れた視界、覆っていた手を外して白が隼を支えた。

「織部さん」
「うん?」
「帰りましょう」
「うん、いいよ」

 隼の帰るべき場所は違うと白は突き放しはしなかった。ただ「いいよ」と許してくれた。
 許されているのだ。
 望まれているわけでも、歓迎されているわけでもないのだと隼の頭は考えることを拒絶する。

「少し寒いね」
「……秋ですからね」
「そうだな……ぶえっくしょい」

 派手なくしゃみを一つして、白は「今夜は鍋にでもしようか」と当たり前に隼へと話を振る。
 それがどれだけ嬉しいか、安心できるか。きっと知っていて言っているのだろうと隼は分かっている。
 隼はほんの少し泣いてしまいたい気持ちになったけれど、これ以上白を困らせたくなくてどうにか涙を飲み込んで頷く。

「しらたきじゃなくて葛きりいれようか」
「それも美味しいんでしょうね。あなたが作ったものならなんでも好きですよ」
「お前さんも手伝いなさいな」
「ええ、もちろん」

 くっきりと雲ひとつない秋晴れの空の下を歩く隼は白と帰る。
 その背後に過去が忍び寄っている現実に気付かないまま。
 あるいは、ひたすらに目を背けながら。

[*前へ][小説一覧][次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!