小説
五話
携帯電話のアラームが鳴る。
拓馬はベッドの上で目が覚めた。
手繰り寄せた携帯電話は常よりも早い時間にアラームが設定されていて、もっと眠れたはずなのに、という思いから眉を寄せる。
アラームを止めて起き上がったところで、拓馬は不意に記憶がざらり、と頭のなかに流れ込んでくるのを感じた。
昨日、昨夜、窓から訪れた白。
交わした会話。
はっとして周囲を見渡しても、白の姿はどこにもなかった。
夢でも見たのだろうか、と思いながら、ぼうっとする頭を起こそうと顔を洗うべく部屋を出たところでインターホンが鳴るのを聞いた。
早朝に誰だろうか。
朝食の支度をしている母親が怪訝そうにしながら玄関へ向かうのを、階段を降りながら見た。
「どちら様……」
「おはようございます。朝早くに申し訳ございません。我々はこういうものです」
「Olivier Protection……警備会社の方?」
拓馬はひゅっと息を呑む。
スーツを着た二人組の男女は、慇懃な様子で母親に説明する。
「ご依頼を請けて、ご子息の因幡拓馬様をご両親からお守りすることになりました」
「…………は?」
「まだ最近のものしか遡れていないのですが、一番新しいものから湯呑みを投げつけたことによる火傷、重たい灰皿を投げつけたことによる軽度の打撲、その間には暴言が……」
「ッなんなのあなたは!!」
階段を駆け下りた拓馬は、母親の後ろから玄関の向こうに立つ男女を凝視する。
拓馬に視線を向けた男女は淡い笑みを口元に刷くと会釈して、拓馬と自分たちを青褪めたり紅潮したりとまだらに変わる顔色の母親に向き直った。
「先ほど申し上げました通り、我々はご両親より拓馬様をお守りするように依頼を請けております」
「守る? 守るってなによ!」
「なんの騒ぎだ」
出勤前の父親が騒ぎを聞きつけて現れても、男女は怯んだ様子もなく挨拶をした。
「ご存知のことかと思われますが、他者に暴力を振るうことは犯罪です」
「我が子に不当な暴力を振るうことは虐待です。暴力は肉体的なものに限りません。言葉、接し方も含まれます」
「な……なんの証拠があるんだ。こいつは不良でいつもろくでもない連中と付き合って、勝手に怪我をしてくる。それを私たちの所為にするなっ」
「私たちの所為にするな、ですか」
男が拓馬を見た。
拓馬の膝がわらう。
ひとは恐怖を覚えたとき、ほんとうに膝ががくがくと震えるのだ。
拓馬は自分が何に恐怖をしているのか分からなかった。
自分が堪えて、我慢して、それでどうにか保っていたものがばりばりと壊れていく音を今まさに聞いていることだろうか。
男女が帰った後に父親と母親が自分になにをするのか、なにを言うのか、どんな目で見るのか、それをどこかで予想しているからだろうか。
それとも、父親と母親の言動が暴力であると、虐待であると、第三者が断定したことにだろうか。
不当な暴力と男の一人は言った。
不当ではない、と拓馬は己にずっと言い聞かせてきたのだ。
自分が叩かれるのも殴られるのも蹴られるのも、痛い思いをして我慢をしなくてはならないのは、全部ぜんぶ自分が望まれていない子どもである所為なのだ。
自分が悪いからなのだ。
だから、不当な暴力だなんて、虐待だなんて言わないでほしい。
父親と母親が悪いことをしているのだと、自分が我慢をしているのはおかしいことなのだと、気づいてしまうから。
目を背けて耳をふさいで、呼吸を止めるように堪えてきたものに、向き合わなくてはならなくなるから。
当たり前にできていた我慢が、できなくなってしまうから。
――それは、当たり前のものではないよ。
ぱちり、と小さな電流が頭に走って、拓馬はは、と目を見開く。
拓馬の急激に鮮やかになった視界に映り込む男女が、拓馬を見つめる。
硝子のような目だと思った。
硝子だと思うなら、色を流し込むのは拓馬自身の意思なのだと、とろりとろりと蜜が流れるような速度で回り出す頭が答えを出す。
「…………なあ」
拓馬はひりひりする喉から無理やり声を絞り出し、両親へと声をかける。
余計なことを言うなという視線が突き刺さった。
「拓馬様」
手を差し伸べる男。
拓馬はぐ、と強く目を瞑ってから、靴も履かずに玄関へと飛び出す。
拓馬が伸ばした手を掴んだ男が拓馬を自身の隣へ、もう女が拓馬の少し前へと立つ。
守られていた。
大人がこどもにするように、男女は拓馬を守っていた。
不良で、体格は随分とよく育って、喧嘩では殆ど負けなくなった拓馬を二人の大人が守っている。
親が子どもにするように、拓馬を守っているのだ。
「なあ」
拓馬は再び声を上げる。
「俺、俺は、あんたたちに、父さんと母さんに、なにか……したか?」
両親が凄まじい顔になる。
表情筋が痙攣して、声にもならない怒りが血管を走り巡っているかのようだ。
「あんたが……あんたが私に……! 私からあのひとを……!!」
「お前は、お前がいるから!!」
「ッ俺はただ、生まれてきただけだ!!!!」
がしり、と頭を抱えるように、後ろから男が拓馬を抱き締めた。
抱き寄せた、寄りかからせた。
言い換えることができるような仕草だったけれど、力強い腕に抱擁されているのだと、拓馬は感じたのだ。
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