小説
四話



 拓馬はぽかんとした。
 白の言っている内容が上手く咀嚼できない。
 我慢。
 我慢をしている。
 なにに?
 なにを?
 どういうわけだか、言葉が頭のなかで上手く繋がらない。
 白は硝子のような目で見つめて、少しも視線を揺らがせない。
 飴色に映っている自分がどんな顔をしているのか、拓馬には定かでなかったけれど、卓上鏡に手を伸ばしてまで確認したいとは思わなかった。
 沈黙。
 なにかを言うべきだ。
 なにを言えばいいのか分からない。
 分からないなら分からないでいいとも思う。自分が賢くないことを、白はとっくに知っているのだから。
 なにも言えない。
 分かっている。
 分かっていた。
 言うべき言葉、問いへの答えを自分が持っていることを拓馬は分かっていた。
 どうしようもなく声にすることに躊躇して、躊躇が阻害して、拓馬は音にできない。
 口からはひゅう、と木枯らしのような吐息が繰り返されるばかりだ。
 白は応えることのできない拓馬を見つめたまま、渇いた声でぽつり、ぽつりと話しだした。

「俺の行動や、行動原理のどこにもないものだから、俺はどうするのかを知っていても、実行できない――お前の答えがなければ」

 拓馬に理解させるつもりの言葉ではなかったらしい。
 商品説明をしているのに少しだけ似た印象。
 白のなかでだけ完結されたなんらかの理由があって、彼は此処にいる。

「……総長って、どんな家族がいるんすか?」

 拓馬は白に答えを返さぬまま、その場で体育座りをして問いかけた。
 白は問いに答えがないことになにを言うでもなく、拓馬の質問を受けて「そうだなあ」と考える。

「俺の家は俺の他は親父とお袋だけなんすけど、親父とは血が繋がってないんすよ。お袋の浮気……婚約中だから浮気になるんすよね?」
「うん」
「それでできたのが俺で……お袋的には一応狙って作ったっぽいんすけど、望んだような結果にはならなくて、完全に厄介者になって、一応親父に伏せたまま結婚して暫くは暮らしてたんすけど……まあ、バレますよね」
「そうだね。そういうものかな」

 へらり、と拓馬はわらう。
 頬がひりひりと痛んだ。

「最初はなんつうんすか? 暴言? モラハラっての? それ系で……ガキっすから、まあ、萎縮するより捻くれる方向に育って、途中から平手だのが頭やら手やら頬やら、ティッシュ箱投げつけられたり、リモコンぶち当たったり、突き飛ばされるのはしょっちゅう」
「うん」
「初めて拳で殴られたのは、運動会の保護者競技のプリント渡したとき」

 震えた声で、震えた呼吸で、喉を震わせながら拓馬は必死にわらい続けた。
 頭がぐつぐつと煮えたような感覚でどうにかなりそうだったのに、背中が寒い。ぞわぞわと鳥肌が止まらない。
 多大な諦めと僅かな期待を胸に差し出した紙切れは叩き落された。
 ――誰がお前なんかのために。
 吐き捨てて拳を振るった父親は覚えているだろうか。
 いつか、同じ口で「父さんはお前のためならなんでもできるぞー!」と逞しい腕に拓馬を閉じ込めて、柔らかな頬にぐりぐりと髭の剃り跡を押し付けていた日々を。
 覚えているから、きっと振るわれた拳は重たくて。

「…………痛かった」

 言葉も物も平手も拳も、なにもかもが痛かった。
 喧嘩をどれほど重ねても、敵わない相手のほうが少なくなっても、そうしようと思えば片腕でなぎ倒せる中年の男女から与えられる痛みが重く、鋭く突き刺さってくる。
 呼吸ができなくなりそうなほどに、痛いのだ。

「俺の家族はね」

 詩をなぞるような口調。

「俺が暮らしていたのは父方の祖父母の家。両親は成田離婚済み。父親は忙しいもんで祖父母の家に俺を預けたけど、できる範囲で顔は出してたと思うよ。自分のマンションは寝に帰ってただけじゃないかな」
「いい親父さんですね」
「どうかと思う部分あるけどね。マジで」

 白は軽く手を振る。最後の部分は力強かった。

「母親は……常に躁状態かってくらいテンション高くて、瞳孔かっ開いてて、この前はカッパドキアから奇岩模したボトルに入ったワインが送られてきた」
「カッパドキアって何処っすか」
「トルコ」
「……いいなあ」

 トルコ。
 曖昧な想像しかできないけれど、アメリカや中国といわれるよりも、ずっと夢が膨らむ異国の香りがした。
 いつか、行きたい。
 見知らぬひとがいるだろう。
 見知らぬものがあるだろう。
 知らぬ言語、知らぬ文化。
 拓馬を知るひとはおらず、それが当然で、だからこそ当然のことに思うこともなく異国の空気は拓馬の肺を巡ってこの苦しい胸を透き通らせ、呼吸を促すだろう。
 希望、願望、夢。現実の痛みを紛らわせる麻酔。
 嗚呼、と拓馬は俯きぐしゃりと前髪を両手で乱す。
 答えがぐちゃりぐちゃりと頭を胸を喉元を侵食していく。
 もはや、痛みは堪え難いほどであったのだ。
 痛みは、現実は、状況は、堪えなければならないほどのものであったのだ。

「…………………………俺は、ずっと…………我慢して……」

 我慢していた。
 仕方ない。
 浮気でできた子どもだから。
 役に立たなかった子どもだから。
 望まれていない存在だから。
 この痛みは当然なのだと諦めて、ずっとずっと、我慢していた。

「それは、当たり前のものではないよ」

 ぽきん、となにかがそうっと折れた音が聴こえた。

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あきゅろす。
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