小説
三話



 拓馬の部屋は不良なんてものをやっている高校生男子の印象に反して、清潔なにおいがする。
 消毒液のにおいだ。
 一瞬の痛みと引き換えに、多くの痛みを拒絶しようとするにおいだ。
 ひとを殴ることに慣れた手は、同じくらいには手当をすることに慣れている。その多くは、自分へ向けるものだけれど。
 卓上鏡を見て、ため息をひとつ。

「硝子の灰皿はねえだろ……死ぬぞ」

 これだから素人は、と路上叩き上げの不良は嘆いてみせる。
 灰皿は弾いた。
 けれど、熱い茶の入った湯呑みを投げられてしまうと、僅かに茶のかかった頬がひりひりと痛むのだ。
 この家がもう少し広ければ、幾らでも立ち回れるのだけれど。
 家具の置かれたリビングで大暴れなどしようものなら、恥知らずに警察を呼ぶだろう。拓馬としても警察からよい感情を持たれていないのを知っているので、遠慮願いたいことだ。
 馬の油を薄く塗り、独特のにおいに眉を下げたところで拓馬は卓上鏡を伏せようと手をかけ、ぎょっとして後ろを振り返る。
 鏡がほんの僅かずれたとき、ちらりと拓馬の背後に映った白いもの。
 拓馬の背後には窓があり、窓の向こうになにかがいたのだ。
 恐る恐る振り返る。
 拓馬は悲鳴を無理やり両手で押さえ込んだ。
 ぼうっと仄白く浮かび上がる人影、時折きろ、と光るのは飴色の目。

「総長……なにやってんすか……」

 拓馬の呟きが聞こえたわけではないだろう。恐らく口の動きを読んだのだ。それぐらいの芸当ができるであろうとすんなり他者へ信じさせる白は、窓越しに拓馬へ手招きした。
 拓馬ははたと気づく。
 この部屋の窓の向こうには、足場らしいものなどない。
 慌てて窓に駆け寄れば、窓の縁に指先だけを引っ掛けて全体重を支えている化け物がいた。

「うっわ……」
「ドン引きしてないで開けなさいよ」

 窓越しにくぐもった声が催促するので、拓馬はなるべく静かに窓を開けた。すぐに白の片腕が伸びて、がっちりと窓の桟を掴んだ手がやはり全体重を持ち上げて迫力満点な入室を果たす。

「こんばんは、デリバリー総長です」
「……チェンジって利きます?」
「その場合は俺が怖いお兄さんも兼ねます」
「袋叩き確定じゃないっすか……」

 拓馬は入室直前に脱いだ靴を持ったままの白に、その辺にあったビニール袋を差し出した。ありがたく頂戴した白はいそいそと袋に靴をしまい、どっかりと床に座り込んで部屋へ寛ぐ姿勢を見せる。

「あの、総長」
「なんだい?」
「いや……何事っすか?」
「突撃隣の晩飯」
「晩飯の時間過ぎてるっす」

 白は考えるように天井を見上げた。
 夜だからだろう。いまは遮光眼鏡をかけていない白の眼差しは温度がなくて、ただ光を反射する硝子に似ていた。
 天井を見上げていた白がかくん、と首を傾げ、そのまま俯く。

「俺もね、ちょっと困ってるのよね」
「は? 総長が?」
「そうそう。なんといっても……なんと言えばいいのか……」

 言葉の通り白は困っているように見えた。
 あの白が!
 拓馬は驚愕に顎が外れそうになる。
 いつでもどこでもどんなときでも飄々とした態度、ふざけた言動、一定の韻律を保つ白が均衡に揺らぎを見せるなんて。
 拓馬が驚きながらも、しかし狼狽して血の気の引く思いをすることがなかったのは、揺らいで見えようと白が弱々しく見えたからではなかったからだ。
 白はただ、困っているだけだ。
 手立てを失って取り乱しているわけでも、冷静さを手放して蹲っているわけでもない。
 言葉にすれば「どうしよう」だろう。
 けっして「どうすればいいのだろうか」ではない。
 白のなかには困っていようとも選択肢が存在し、どの選択肢を選ぶかに迷っているだけなのだ。
 拓馬は安堵する。
 両親の仲が破綻してから転がるように自身も荒れて、喧嘩に明け暮れるようになった頃。
 拳の握り方も知らなかったような少年の拳から何度も皮が剥けては治って、すっかりと固い手を有するようになった頃。
 荒んだ目をして睨みつけた先に翻る赤い髪。
 意味のない罵倒を吐き出した先に嗤う華やかな顔。
 belovedというとんでもなく強い不良の集団、その総長と副総長に拓馬は喧嘩を売ったのだ。
 そして、一分と経たずに路上に転がった拓馬は泣いた。
 完膚なきまでに叩きのめされた瞬間であった。
 拳が固くなった分だけ積み重ねた痛みが、一切通用しない相手であった。
 有象無象のように転がされ、今までの全部が無意味だと、ただなにも考えたくなくて前も分からず走っていたに過ぎないのだと、突きつけられた瞬間であった。
 嗚咽と涙と鼻水と、顔から出るものを全部出して咽び泣く拓馬に呆れたような声。
 呆れたような、といったけれど、その声には少しだけ懐かしいものが含まれていた。
 そのとき、その瞬間から、拓馬にとってbelovedは特別だ。
 新しく立ったbelovedの総長。白い男。白。
 白もまた拓馬に圧倒的な色彩を刻み込んでくれた。
 belovedという色は少しも褪せることなく、さらに鮮やかなものになった。
 だから、白がその色を霞ませることがなくて、拓馬は安堵したのだ。

「……得意不得意の話じゃない。俺には備わっていないものだ」

 独り言のように呟き、白が拓馬を振り返る。
 相変わらず、飴色の目は硝子に似ている。
 常であれば、もう少しなにかを覗き見ることができるような気がするのに、いまはただただ透き通っているばかりだ。その先にはなにも存在していない。

「あのさ」
「……はい」

 白はなにか、自分にとってとても衝撃的なことを言うつもりであると、拓馬は察して喉を上下させる。

「あー……なんだ、どう言えばいいんだ?」

 困ったままの白に、拓馬は苦笑する。

「らしくないっすよ。いつも、ずばっとなんでも言うのに」
「無責任であるか、俺の責任でしかないなら幾らでも言うよ」

 白は肩を上下させ、それから拓馬をひたりと両目で捉えた。

「お前は……我慢しているのか?」

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