小説
二話



 昔から、おかしな雰囲気を感じてはいたのだ。
 買い物に向かう母親の少し後ろをついて歩きながら、幼い拓馬は道行く親子が楽しそうに手を繋いで他愛もない会話をしているのを眺めた。その所為で足が遅くなっても母親は待ってくれなかったので、開いた距離を埋めようと走って、転んで、先を行く母親を泣いて呼んで、振り返らない背中に鼻を啜りながら立ち上がって、足を引きずりながら追いかけて。
 母親の機嫌を取るような素振りの多かった父親。花や菓子などを土産に買ってきてはつれなくされて落ち込んで、後ろから服を引っ張れば苦笑いしながら頭を撫でてくれた手が、ある酷い喚き声と怒声と泣き声の嵐による夜を越えてから、平手や拳に変わった。

「あんたがいなければ、私はあのひとと一緒にいられたのに」

 啜り泣く母親が涙に赤くなった目で睨む。

「なんでだ、なんで俺の子どもじゃないんだ、どうして俺を選んでくれないんだ」

 泣きながら父親が振り上げた手で叩く。
 母親には恋人がいたらしい。
 父親とは見合いによる婚約関係で、父の熱心さで成立した温度差のある婚約だったという。
 本来であれば恋人とは別れるか、見合いなどするべきではない。
 母親の両親が母親の恋人を気に入らず、結婚を許さなかったのだという。
 母親は恋人と別れたくなどなくて、見合いのことも婚約のことも言い出せず、焦燥感のなかで不幸な思考に取り憑かれる。
 子どもができればいい。
 恋人との子どもができれば、婚約を破棄して恋人との仲を認めざるを得なくなるはずだ。
 事前に細工をして、事後にごみ箱を漁って、浅ましいまでに求めて、検査薬が陽性を示したときに母親は狂喜乱舞しながら恋人のもとへ駆けた。
 そうして、捨てられた。逃げられた。
 婚約のことが知られていた。
 婚約関係ともなれば、破棄には理由によって慰謝料が発生する。

「平凡な女に何十万、何百万も払えるか。おまけに子ども? 冗談じゃない」

 吐き捨てられて、呆然としている間にいなくなった恋人。
 繋がらない電話。住人のいなくなったアパート。
 入居者募集の張り紙の前で立ち尽くす母親の携帯電話に、父親から連絡が入り、壊れたような顔で彼女は応じた。

「あ、あのね、実はね、どうしても、あなたの子どもが欲しくて……」

 郭公が鳴く。
 騙して、欺いて、偽って。しかし母親はちっとも幸せではなかったのだろう。
 幸せになるために欲した子どもは幸せの崩壊を招いた。
 目を背けた現実、不安定な天秤も、やはり子どもの存在によって崩壊した。
 父親の欲した理想も、幸せも、最初から破綻して、粉々に砕け散った。

「あんたなんか産まれてこなけりゃよかったのよ……!」
「お前なんか顔も見たくない……!」

 では、子どもの幸せは何処にある。
 何処にあった。
 子どもは、どうすればよかった。
 そも、子どもがどうこうするべきことであったのか。
 子どもがどうこうしなければならないことであったのか。
 子どもにとってはただ、生まれてきただけなのだ。
 子どもにとっては「そう」在るだけなのだ。
 それなのに。
「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」「お前が悪い」

 ――お前の存在そのものが悪い。

 飛んできた硝子の灰皿を弾いた手が痛くて、拓馬は唇を歪めた。



 お節介焼きかと問われれば、本人も、本人をきちんと把握しているひとも、否と答えるだろう。
 薄情。
 読んで字の如く、情が薄い。
 振る舞うことは幾らでもできるし、するけれど、必要な場面であるか、損得勘定、暇潰しに適しているか、などなど。取捨選択のもとで行われている。
 もう一つ重要。
 相応しいかどうか。

「――らしくない気がしてならないのよね」

 白はこき、と首を鳴らして一軒の家を見上げる。
 外灯のすぐ傍に立っているというのに、奇異な容姿を持つ白は不思議なほどに目立つということを知らない。
 ふとすれば、羽虫さえも通り抜けようとするほどに。
 気配を殺すのはお手の物。
 得意なんです、と声に出せば袋叩きにしてくるであろう知り合いが白には一人、二人、三人……考えるのが悲しくなって白はやめる。
 人間、謙虚が一番なのだ。道の隅っこを歩いて大きな体を縮こまらせながら生きていくのが自分にはお似合いなのだ、と白は背筋がぞくぞくする発想に震える。それでも通行人が一瞥すらしない。
 自身の性的嗜好が疑われそうな場面すら見逃される素晴らしい才能、技術を、しかし白は謙遜できる。
 謙遜する気のないものは別にある。
 教えてくれたひとはもういないけど。
 白は「やーれやれだ」と呟いて肩を上下させる。
 古傷のようなものだ。
 普段はなんともないのに、天気、気温、気圧、なんらかの要素で痛んだり痙攣したり、妙な反応をして体の主人を困らせる。
 常であればきっと、求められもしない間に動くことなんてしないのだ。まして、それが「そういう存在」と認識している隼以外であるのなら。
 それでも白はこうして夜の遅くに警察の職質も恐れず外へ出て、住宅の前に立つという不審な行為をしている。
 これから、もっと不審な行為を重ねるのだけど、と白は見せかけばかりのため息を吐いて外灯のそばを離れた。

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あきゅろす。
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