小説
五話
カインはげらげら笑いながら片手に引っ掴んだものをエリステスに向けて、ぶらぶらと揺らしてみせた。揺れるごとに聞こえる呻き声は、カインが掴んでいるものから聞こえる。
片手でさも軽々とした様子であるが、カインの手にあるのは大の男である。軽装ではあるが、しなやかについた筋肉は見た目よりも重そうな男の体重を予測させ、また予測は事実でもある。
「ご主人様ぁ、このドブネズミどうしますー? あ、ドブネズミっていうと途端にばっちく思えてきた……そっちに放り投げていいですか……」
「いいわけがあるかっ」
エリステスは青い顔で叫ぶ。
焦る主人にぶうぶう口を尖らせるカインであるが、エリステスの反応も当然のものだ。
カインがぶらぶらと揺さぶり続けている男はつい今しがた、エリステスを亡き者にせんと刃を手に潜んでいた慮外者なのだから。
刺客、暗殺者、名称はなんでもいい。
殺意があってもなくても、エリステスの死を目的として彼が訪う部屋へ潜んでいた男を、カインはあっさりと引きずり出した。
それはもう、鮮やかな手並みで。
後頭部で両手を組んでだらしない姿でエリステスの前を歩いていたカインは、部屋へ入るなりエリステスの視界から消えた。
次いで、聞こえたのは重たいものが床へ叩きつけられる音。
天井に潜んでいた男は、カインに組み伏せられる体勢で床へそのまま「落とされた」のだ。
流れるように外された各所の関節。折られた数本の指。まとめて引き抜かれた頭髪には血すら付着している。
「どこの飼いドブネズミですかね。ってか、ドブネズミって飼い主認識してんのかな……ご主人様、どう思います?」
目を揺らすエリステスは、カインによって床へ叩き落された男の手から落ちた刃物を見たときから冷静さを欠いていた。
なにをすべきか、思考が儘ならない。それが余計に焦りを呼んで、悪循環となっている。
ぐるり、ぐるりとエリステスの脳裏を巡るのは父の期待なき眼差し、周囲の侮る声。
そして。
「だぁいじょうぶですよ、ご主人様ぁ」
間延びして、いやらしく、品もなく、揶揄するようなカインの声にエリステスは我に返る。
「このドブネズミが白痴野郎だったとしても、俺がどうにかしてやります。なんたって、俺はそのためにいるんですからねぇ……?」
エリステスは渇いて張り付く喉をどうにか湿らせ、はくり、と口を開いた。
「か、カインヘル」
「はいはい、なんですか。エリスちゃん」
「そ、その薄汚い輩を放った鼠の穴蔵を見つけだし、相応の報いを受けさせろ」
騎士にさせるようなことではない。
させるならば、もっと適切な立場のものがいる。
カインはエリステスの騎士だ。
貴族の、侯爵の騎士だ。名誉あるものにさせるような仕事ではない。主人の格も知れるというものだ。
分かっていても、エリステスは必死にカインへ命じるのだ。縋るように命じるのだ。
にぃしゃぁりとカインは真っ赤に熟れた果実の切り口にも似た笑みを浮かべ、ちょい、とエリステスへ会釈する。
「ええ、ええ。このできた騎士様にお任せくださいな」
「き、きた、期待している」
「わあ、嬉しい。給料反映でいいですよ」
「……考えておく」
ようやく落ち着きを取り戻し始めたエリステスに「それじゃ」と言って、カインは姿を消した。
ドアが開いた気配もない。窓が開いた気配もない。エリステスにはカインがどうやって部屋から出ていったのか、さっぱり皆目検討もつかなかった。
「……せめて、別の護衛が来るまで待たんか」
「そいつはすみません。寂しかったらこの子を抱っこしててちょうだい」
肩口にもふりと押し付けられた感触と、突如聞こえたカインの声にエリステスは文字通り飛び上がった。
げらげら嗤うカインの声。
部屋を見渡してもカインはいない。
代わりにふわふわしたくまのぬいぐるみが床へぽとりと落ちた。
唖然としたあと舌打ちし、エリステスがぬいぐるみを拾った直後にノックの音。
咄嗟に隠し場所も思いつかなかったぬいぐるみ。
やってきた護衛にどう思われているのか、エリステスは気が気ではなかった。
男は椅子に縛り付けられていた。
目の前には皺も染みもないクロスのかかったテーブル。
置かれた小さなグラスには薄黄色のジュレがかかったサーモン。サーモンが新鮮ではないのか、妙に臭みが鼻につく。ただ、生臭いのとは違う気がした。
吹き出る冷や汗を拭うこともできない男の前に薄気味悪い真白の幽鬼が現れて、ジュレのかかったサーモンを掬うと男の口へ無理やり押し込んだ。
舌を刺すのはとてもではないが飲み込めたものではない味。
悪臭の正体がアンモニアであることに気づき、襲う吐き気に男は叫びたくなったが、椅子に固定されるまでに味わった恐怖がそれを許さない。
男の喉が上下するのを確認し、真白の幽鬼は去っていく。
再び現れたとき、彼は銀のトレイにまたしても小さなグラスを置いていた。
それを見て、男は悲鳴上げる。
色鮮やかにグラスの中で踊るのは、賽の目に切られた野菜たち。
そのなかに、場違いな眼球。
ぷかりと間抜けに飾られた濁った眼球は、カクテルサラダの彩りと相まって悪夢のようだ。
真白の幽鬼は眼球をカクテルサラダと一緒に掬い、再び男の口へ押し込む。
男は暴れようとした。拘束は少しも緩まない。口を開かないように足掻いた。瞼をひと撫でされた瞬間に硬直し、呆気なく男の口の中に眼球と甘酸っぱいカクテルサラダの味わいが広がる。
厚手のタオルで男の口が塞がれる。
少し遅ければ、男の吐瀉物が撒き散らされていたことだろう。
出口を失った吐瀉物は男の口の中で膨れ、鼻から溢れて男を溺れさせる。
数秒して、タオルが外される。汚れたタオルはそのまま男の膝へ落とされて真白の幽鬼が去っていく。
次に現れたときには白いスープを携えていた。
力なく流し込まれるスープを男は飲むしかなかった。
意外にもスープは悪臭などもなく、むしろ味そのものが奇妙に薄かった。まるで、湯にろくな味もないなにかの粉を溶いただけのような。
続いて出てきたパンも似たようなもの。
束の間の安堵。
しかし、出てきた薄切り肉に男はじっとりと脂汗を滲ませる。
この肉はなんの肉なのか。
妙な酸味のするこの肉は、なんの肉なのか。知りたくない。想像もしたくない。
もうやめてくれと叫んでも、真白の幽鬼は真っ赤なソルベを持ってくるばかり。真っ赤だ。古釘のような臭いのするソルベだ。
男は吐いた。
吐いても真白の幽鬼は手を止めない。
「次がメインディッシュだ」
初めて、真白の幽鬼が喋った。
ぞっとする。
やめろと叫ぶ。やめてくれと叫ぶ。助けてくれと叫ぶ。許してくれと叫ぶ。自分が悪かったと非を認める。
「もうお前の主人に手を出そうなんてしないから……」
男は絶句した。
大きな皿に乗せられたのは、大きな肉の塊。
ぽっかりと空いた穴に埋められていたものは、先程男の腹に収まったばかりだ。
だらりと垂れ下がる舌。鼻から垂れる脳髄。口から溢れる唾液と血液と吐瀉物の後。
人の尊厳など微塵も感じられない、ただの生首が其処にあった。
「お前がよこしたドブネズミだ。さあ、召し上がれ」
「ご主人様、お使い終わりましたぁ」
「……よくやった」
「もっと褒めてくれていいですよお?」
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