小説
二話



 格式窺える広々とした貴族の屋敷の応接間。
 向かい合うのは貴種と馬の骨。

「噂に違わぬ歪な姿だな。なんだ、その日を浴びたこともないような弱々しい形は。矍鑠とした老人のほうが見栄えがいいとはよっぽどだ」
「なんだこの高慢チキチキレースぶっちぎり優勝者は。後ろに撫で付けた髪をそのまま撫で剥いでやろうか」

 カインは目の前に立っている貴族の青年に、間髪を容れず言い返す。
 一応は供された上等な紅茶も瞬時に冷めやる抗弁にもならないカインヘルの言い様は、端的に言って罵倒であった。
 格上の貴族相手でもなし、まさかこのような侮辱を受けるとは思ってもみなかったのだろう。自分が貶すのはいいが、貶されるのは嫌という性根がよくよく分かる顔色で怒りを浮かべる青年は、カインを呼び出したご嫡男様らしい。
 つまりは、未来の侯爵。
 未来の侯爵領の領民にはお悔やみ申し上げます。
 自らを呼び出した青年は、カインが謝罪と賠償を請求するよりも早く罵倒してきたので、カインも同じ作法で打ち返した。自分がされて嫌なことは相手にしてはいけませんとは、教わってこなかったのだろうか。カインも教わっていないのでお揃いである。
 青年が無礼だ侮辱だ不敬だと騒いで、不思議の国の物語の登場する女王が如く斬首でも言い渡してくれたら、カインは潔くすたこら逃げる。命が惜しい、恐ろしいという言い訳建前振り翳し、そりゃもうすたこら逃げる。
 謝罪と賠償を請求しに来たのに、首を要求されれば誰だってそうする。
 加えて、この青年はカインが首を差し出したって硬貨の一つもくれる気配がない。その場で飛び跳ねさせてもチャリンとも言いそうにないのだ。お貴族様は自分のお手々で支払いというものをしないそうなので。
 いや、チャリンとはいうであろうが、素敵な音色の楽器をカインが譲ってもらう前に、目の前の青年が不幸な事故に遭いそうな気がする。
 やはり、謝罪と賠償がもらえないなら、カインには青年に用がない。
 結論が出ているのなら穏便にこの場を去ればいいものを、貴族の罵倒にぷるぷる震えていればいいものを、悲しいことにカインは黙るという行いを母親の腹に置いて生まれてきてしまったのだ。なんという欠陥品。返品できないので苦情を入れるのが限界であるが、我が子の教えもしない言動にいわれなき誹りを受けるはずであったカインの両親はとうのむかしにこの世にない。
 あれはよく晴れた日のことで、酒と薬に酔った父親は金を出させるために、男と色に狂った母親も金を出させるために、互いに刃物突きつけ合って仲良くご臨終あそばした。
 お似合いと大変評判な夫婦の間に生まれたカインは、賑やかだった家が静まり返ってしまった日のことを覚えているようないないような。
 カインにはあるのだ。
 なにがあったとしても、自分で責任をとるという覚悟が。
 なにがあったとしても、物理的に解決するという強い意思が。
 貴族の青年は、当然ながら目の前にいるのが凶悪な怖いもの知らずであることなど分からない。
 真っ赤に染まった白皙の面を怒らせて、さあ怒鳴らん、いざ怒鳴らんと口を開きかける。

「カインヘル・アベルカムだと!!」

 青年の気勢を削ぐように、彼の後ろから近づく気配。
 カインは気づいていたが、まさか自らの名前を大声で呼びながらやってくるとは思わず「あらやだいつの間に有名になったのかしら……」と井戸端に集まる主婦じみた仕草で頬へ片手を当てる。
 ドアが開かれ、品のある壮年の男が入ってきた。顔立ちは青年に似ている。

「父上」
「お主がカインヘルか」

 呼称からして親子関係であろうに、息子の呼びかけに応えず一瞥すらくれないまま横をすり抜けカインの前に立ったのは壮年の貴族。
 彼こそはラストベル侯爵である。
 なんとも好意的な様子の侯爵は、僅か後ろで息子が凄まじい形相であるのに気づいていないのか。間違いなく気づいているだろう。
 ならば、どうとも思っていないのか。
 いないのかもしれない。

「カインヘル・アベルカムが来るというのなら、そも他の候補などに構う時間を設けることもなかったというのに!」
「はあ、なんの話かさっぱり分からないのに嫌な予感だけはひしひしするので帰っていいですか」
「愚息はお主の手を煩わせるだろうが、どうか支えてやってくれ。これでも侯爵家の後嗣なのだ」
「おっさんになると話聞かない病気になるの? 局地的病なの? 年齢疾患?」

 カインは貴族ではない。
 本来であれば平伏して許しなく顔を上げるのも無礼になるような身分差があるカインを相手に、まるで息子をこき下ろすような物言いをする侯爵。
 哀れなほどに張りつめた顔をする息子のことは、やはり振り返りもしない。

「支えるとかなんの話なんですかねえ、聞きたくないんで帰らせてもらいます」
「ははは、カインヘルは冗談が上手いと有名だ」
「冗談じゃねえよ」
「そう、冗談ではない」

 侯爵の目が猛禽類の鋭さに変わる。

「私は本気でしかない。我が息子、エリステスの従者、騎士は数多の戦場を渡り歩いた傭兵……無色透明が必要なのだ」
「そのこっ恥ずかしい名前やめてくれます? あと、おたくから派遣されてきたおっさんは薄気味悪いとか散々なこと言ってくれましたけど」
「これは一人ではなにも成せぬ。維持は精々できるだろう。いや、感情に走ればそれも侭ならん。故に、お主が必要なのだ。無色透明の名が必要なのだ」
「流石は貴族、流石はおっさん、ひとの話を聞きやしねえ。年はとりたくねえな。ぼく、こんな大人にだけはならないようにします! もう二十歳超えてるけど」

 カインは憂い顔になる。
 紳士的に小遣いを稼ごうと思うのではなかった。最初から恐喝して最短で金をせびって即退散すればよかったのだ。
 特に金に困っているわけでもないのに、もらえるものはもらっておこうという浅ましさがこの状況を招いたというのだとすれば、金ありきで回る世の中が間違っているので自分は悪くないとカインは主張する。
 自分は悪くない、悪いのはなにもかも失礼な使者と目の前の貴族とあと世界。とにもかくにも自分は悪くない、世間が悪いとカインは繰り返して物理的な現実逃避へのカウントダウンを開始する。
 そのカウントを止めたのは、意外にも父親からこの場にいないかのように振る舞われていた青年、エリステス。

「先程は失礼した」
「ほんとうにね。傷ついたので謝罪と賠償を要求します」
「……私が示せる誠意であれば」

 エリステスが俯いた。
 侯爵の吐いたため息に、エリステスの肩が震える。
 如何にも期待されていない凡愚、如何にも失望されている暗愚、如何にも状況と自尊心に押し潰されかけている劣等感の塊。
 極々ありがちなひと山幾らの塵芥の体で、エリステスが震えている。
 ぎち、とカインの表情筋が軋んだ。
 あまりにも醜悪な笑みの形に侯爵さえ息を呑むなか、カインは初めて自らエリステスへと近づく。
 僅かに聞こえる濡れた呼吸。
 エリステスはまだ顔を上げない。

「おい、ぼんぼん。いま、この場で、その面上げるなら、雇われてやる。忠誠なんぞない。敬愛もない。言動を改める気もない。俺のくそみてえな名前に付随するもんよりも、現在進行系で積み重ねる俺の所業のほうがいずれは重くなる可能性だって十分ある。
 それでもいいなら、今すぐに顔上げろ。おっと、顔は拭うなよ、そのまま、上げろ」

 エリステスの肩が跳ねた拍子に、絨毯が水滴を吸い込んだ。

「エリステス」

 侯爵の低い声。
 震えながら、耳まで真っ赤に染めながら、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、エリステスが顔をあげる。

「……あっは!」

 カインヘルが残忍に嗤う。
 予定変更。
 謝罪も賠償もいらない。

「すっっっっっっっげえ、無様。さいっこう。いいぜ、そのくっっそ情けねえ面で暫く美味い酒が飲めそうだし、当分笑えそう。
 ――雇われてやるよ。ほら、喜べ。お望み通りだ」

 にたにた嗤うカインヘルの前で、エリステスは両手を強く握りしめた。
 握りしめるしか、できなかった。

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あきゅろす。
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