小説
六話




 後ろから駆けてくる気配に、白は無表情を崩さぬまま振り返った。

「織部さん、おはようございます!」
「登校中、満面の笑顔で抱きつきながら挨拶してくるのは幼馴染の美少女しか許されないと思わないかね、隼ちゃん」
「そこらの美少女より美少女やってた千鳥ちゃんのこと呼んだー?」
「おう、呼んだよ。ちょっと顔面の皮剥がさせてくれ」

 身長差からぶら下がるということはないが、がっちりと首に齧りつく隼を放置したまま千鳥の顔へ白は手を伸ばす。
 やあだ、などと言ってさっと距離を取る千鳥に、白は隠しもしない舌打ちをした。

「織部さん織部さん、用事って済みました?」
「うんうん、済んだよ、済んだ。済みました。なんだい、隼ちゃん。なんだってそんな犬っころみたいにはしゃいでるんだい……」
「織部が不在の間、こいつすっっっっごい機嫌悪かったんだよ。あ、二つくらい潰したところあるから後で確認しといてね、『総長』」
「…………不良といっても組織化すれば上は所詮、責任者か……ヤクザもそうだもんな……雇用義務とか発生するんだもんな……」

 白は遮光眼鏡を外して片手で目を覆う。一瞬差し込んだ光も、コンタクトをしているから大丈夫。それよりも束の間でも現実から目を背けたい。物理的には解決しない問題であっても、だ。
 隼は悪びれた様子もなく「元気だしてくださいよ」などと言っている。元総長からすれば、他所様の不良集団を潰すことくらい暇潰し、鬱憤晴らし以外のなにものでもないらしい。勢力図や関係維持という概念は存在しないのだろうか。力こそが全てと返されるのが怖くて、白はぷるぷる震えるしかできない。

「寒いんですか? まだ気温安定しませんからね」
「でも、すぐに蒸し暑くなるよー。あーあ、湿気ってきらーい」

 間延びした喋り方をして口を尖らせる千鳥を、白はあからさまに開いた指の隙間から観察する。ちょびっと眩しいのですぐに遮光眼鏡をかけ直した。
 一種、道化のように振る舞う千鳥が先日は物腰柔らかな良家の子息として振る舞っていたのを、白は知っている。
 千鳥は自宅の敷地内に白がいたことすら知らないだろうが、可能性には辿り着くかもしれない。
 千鳥が祖父である千凌から倉の警備に就いたものの所属会社を聞くことがあれば、だけれど。
 Oribe All Securityは、白の実父であるしのぶが経営する警備会社である。
 表向きには一般的な警備会社となんら変わらないが、特殊な顧客の特殊な依頼に応える特殊な専門部署がある。
 内部の殆どの人間が知らない機密性は、後ろ暗い気配しかしない。

「湿気っていえば、織部の髪も少し反応してるね」
「この前に切ったばかりな気がするんだがねえ」
「やだ、髪伸びるの早いなんてすけべ!」

 僅かに巻き癖ができた毛先を摘んで放し、いつまでも引っ付いている隼を引き剥がしがてら彼の長い襟足を引っ張った。

「いだだだだだっ」
「憎たらしいくらいのストレートめ」
「パーマでもなんでもかけますから放してくださいっ」

 ぱっと手を放せば、隼は頭をわしゃわしゃと揉んで痛みを散らす。
 その大雑把な仕草に再び白が手を伸ばせば、隼はあからさまに警戒したけれど、なにも無体なことを繰り返すつもりではないのだ。

「ほら、きれいな髪なんだから手櫛でももうちょっと気をつけなさいな」

 かき混ぜたせいで縺れる髪を指先で解いてやれば、痛いほどの無言が返る。
 千鳥が無表情とも違う、厳しいとも違う、固い表情で見つめているのには気づいたけれど、言葉にされぬ訴えを白は拾わない。

「…………別に、きれいじゃなくていいです」
「勿体無いことを言うね。生まれつき白髪天パだった俺が嫉妬で狂いそうよ。雨の日の苦労と染めても根本が白くなる屈辱を教えてあげようか」
「……すみません。でも……嫌なんです。これだけ染めて痛めつけても腹が立つくらい色も質も変わらない。嫌なんです」

 違うのがよかった、なんて、駄々をこねるこどものような台詞を言う隼は、顔色も悪く全身が強張っている。
 白は解いた髪を数回手櫛で梳いてから、ぽん、と隼の頭に手を置いた。

「難儀な子」

 隼は詰めていた息を吐き出し、くしゃり、と眉も目尻も下がった笑みを浮かべた。

「ほら、遅刻するよ」
「はい」

「ちょっとお、千鳥ちゃん置いて行かないでよー」

 ポケットへしまっていた固い拳から力を抜いた千鳥が、歩きだしたふたりを追いかけた。



 機械というものが存在するより前、人間性の反対には獣性が存在した。
 今日日、人間的の反対は機械的と認識されているが、元々は獣的であるという過去があってのことだ。
 その男は、そういう歴史を感じさせた。
 獣のような執着心と貪欲さ、機械のような無感動さと合理性。
 それらを練り上げて作った人間の姿をしたもの。それが男だ。
 男はそう見えたし、そう見られていた。

「楊が? 彼は、未だにつまらないことをしていたのですか」

 部下の報告に対する台詞は、出自を判然とさせない北京官話。
 まるで国営テレビのニュースキャスターのような硬い口調で呟くと、一つ頷いて幾つかの指示を出す。
 こそ泥の真似をして盗品を裏で売り捌き、金を稼いでいた知人が少々「災難」に見舞われたらしい。
 いつかそうなる、と思っていたが、存外早かったものだ。
 そう、早い。

「――待ちなさい」

 指示通りに動こうとしていた部下を引き止め、可能な限りの情報を調べろと改めて伝える。
 結果としては大したものは知られない。
 それはそうだ。知人は知られないように動くし、そんな知人をやり返した相手も同じだろう。
 だが、男の知りたいことは知れた。
 いや、むしろ知りたくもなかったことだろうか。

「ああ……楊、あなたとは良い付き合いをしたかったのですが……終わりだ」

 男が知った多くはない情報の一つは、知人が狙ったもの。
 盗品を出すことなく家の威信も守り抜いた相手の家名。その名前。
 男は部下に指示を出す。
 元々出していた指示もまた男にとって都合の良いものでしかなかったが、改めて出されたものは知人をどこまでも破滅させてでも利益を得ようとする苛烈なもの。
 部下は疑問を口にしない。態度に出さない。粛々と従う姿を見せなければ、男は従いたくなる気持ちにさせるだろう。どんな手段を使っても。
 部屋を出て行く部下を見送ることもせず、男は艶のある机を見下ろす。薄っすらと映り込む男のきりきりとつり上がった目は、井戸の底のような色をしている。
 それなのに、とても、とてつもなく、人間らしく見えた。
 男は薄っすらと口を開いてなにかを呟きかけ、まばたきとともに全て飲み込んだ。
 暗い暗い闇の底に、全て飲み込んだ。

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あきゅろす。
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