小説
一話



 彼女は毛先だけ緩く波打つ長い黒髪を揺らし、日向のように屈託ない笑みを浮かべていた。

「筋がいいっすねー。天才ってやつは羨ましいっすよ、もう」
「一本も取れてないのに嫌味ですか」
「ふふん、うちは嫌味が言えるほど頭が良くないんすよー。脳筋ってやつっすね。だから……」

 鮮やかなひとだった。
 目の煌めきも、表情も、しなやかに伸びる指先までも。
 尻もち突いて見上げた彼女の得意気な顔が陰ることを想像もしていなかったのは、こども故の浅慮だったのだろうか。
 そんな言葉で片付けても、良いものであったのだろうか。



 嫌な予感はしていたのだ。
 後からいっても言い訳にしか聞こえないだろうけど、ほんとうだ。マジだって、信じろよ、と言葉を重ねるくらい、予感だけはしていたのだ。マジだって、信じろよ。
 予感していたのに対処をしなかったのかこの無能、と言われてしまうと、白は震えるしかない。無論、高圧的な罵倒に対して胸がときめくせいだ。無論ではない。論じるべきである。
 白はじっと湯呑みへ視線を落とす。
 ぽってりとした白い色合いから紫がかった薄茶の濃淡がうつくしい窯変湯呑みは、しっくりと白の手のなかに収まる。
 湯呑みのなかには産毛が浮かぶ新茶。
 休息のひとときだ。
 安らぎのひとときだ。
 千利休推奨ジャパニーズWABISABIである。
 しかし、だがしかし。
 白の傍らで横たわる携帯電話。
 科学の叡智が詰まった現代人必携の連絡手段。現在では連絡以外の用途にも広く使われる精密機械。
 その画面が光って、振動して、着信を告げている。
 ちらりと白の飴色の目が画面へ向くも、見てはならないものを見てしまったようにすぐさま逸らされる。
 画面へ表示されるのは番号ばかりで名前はないが、白はその番号を知っていた。自身へ電話をかけている相手を、白は理解していた。
 だからこそ、白は携帯電話を忌避する。
 気分を落ち着けようと電話が鳴っているにしては呑気に湯呑みへ口をつけ、ほっと息を吐く。
 その間に切れてくれないかな、という淡い希望は叶わず、白は湯呑みを置いて、湯呑みを持っていた仕草からは想像もできないような汚いものを摘むような手つきで携帯電話を取り上げた。

「……っは、っは……わ、るい……ちょ、電話、置いて、て……っ」

 無表情にその場から一切動かないまま、白はさも携帯電話を置いてその場を離れていた人間が、着信に慌てて駆けつけた体で応答した。
 この場に白以外の人間がいれば心底軽蔑した視線を彼へくれていたことだろう。

「くそくだらない演技してんじゃねえよ」
「おっさんだったら若い子に騙されてやる器量くらい見せろよ」

 くたびれたような声に、白は即行でくそくだらない演技をやめた。
 憎たらしいほどの変わり身であるが、相手は慣れているのかため息一つでそれ以上話題を続けることはなかった。

「はい、お電話から察してると思いますが」
「言わなくても分かるって最悪の怠慢だわー、これは奥さんに逃げられる日も近いわー、ざまあ。離婚理由は『お茶って言われるのに疲れちゃった』ですかー?」
「ぶっ殺すぞ、糞ガキ」
「あらやだ怖い」

 耳に痛い舌打ちがされるも、察していた白は携帯電話をさっと耳から遠ざけている。これがイヤホンであったら手間だった。

「だからお前に電話したくなかったんだよ」
「それなのに電話をくれるおっさんなのでした」
「業務連絡な!!」
「当たり前だろ、個人的な電話だったら『先輩に社内での情報を利用されて社外でも……』って専門部署に相談してるわ」
「なあ、言っていい?」
「言うだけ只よ」
「くたばれ」
「やだぴょん」
「ほんっっっっっとお前嫌い!!!」
「無駄話ばっかりでうざいから電話切りますね」
「それが狙いかふざけんな」

 白は座卓をかりかりと指先で引っ掻く。いじけたこどもそのものの仕草であるが、やっているのは身長百九十センチを超えた高校三年生のご面相が大変物騒かつ無表情の青年である。発育の良さなど見た目で判断せず、実年齢や内面で図るべきなどという御尤もな言葉を白に適用していれば、マニュアルがいかに現実に即していないかという現実を思い知ることになるだけだ。

「はい、バイトです」
「シフト提出してないもん、つっくんこーこーせーだもん、がくぎょーゆーせんだもん」
「社長からのありがたいお言葉聴く?」
「あ、そういうのいいんで。いつ?」

 無駄口を叩くのをやめて、白は幾つかやりとりをして決まった予定に軽くため息を吐く。

「ほんっと、嫌な親父だよ」
「お前の嫌そうな声聴くだけでこの電話をしたことが報われるわ」
「酷いいじめだ。奥さんに浮気バレろ」
「してねえよ!! お前、ほんっっと今度締めるからなッ?」
「かかってこいよ、花菖蒲さんに泣きつくからな!」
「自分が高校生であることを利用していくところ嫌いです」
「高校生に対して大人げないおっさんのこと、嫌いじゃ……ないよ?」
「とても不愉快」

 携帯電話でなければ荒々しく受話器が叩きつけられていただろう唐突さで通話が切れて、白は暗くなっていく画面に映る自分の無表情な顔を見つめた。
 正確には、その横に映る背後のカレンダー。

「あーあ……寝て起きたら枕元に俺を一生養ってくれるという美しく心優しいツンドラ女王様が添い寝しててくれないかな……」

 本日、土曜日。
 珍しくも、という言葉を使ってしまうのがおかしいとは理解しつつも珍しくも隼がおらず、出かける予定もない白は持て余した暇を目覚めた際に自らの願望が叶っている確率を裏が無地の広告を使って真面目に計算することで潰した。
 余白を埋め尽くすほどに計算しても、結果は絶望的に低かった。

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あきゅろす。
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