小説





 きらきらと艶やかな光りを放つ絹糸に、彼方は玄一へ掴みかかった。

「なにこれなにこれ、すげえきれい! その辺に売ってんのと全然違う! なんで玄ちゃんこんなん持ってんの?」
「おい、離れろ。うちが染めやってるからだよ」
「紺屋ってやつ?」
「いや、藍は他所でやらせてもらってるから……」

 その場合でも紺屋といっていいのだろうか。扱っていないわけではないから、と玄一は深くまで理解しているわけではない家業について悩む。

「これ貰っていいの?」
「ああ。試し染めのだからそこまで量はねえけど」
「ありがとう!!」

 彼方は飴を貰った幼児のような満面の笑みで、玄一に抱きつく。工房の中で乱暴に突き放すわけにもいかず、玄一はため息をついて「おう」と返した。

 母屋に戻り、玄一の部屋である畳張りの六畳間に転がった彼方は、興奮のまま玄一に書くものを要求した。図々しい態度に玄一の眉根は寄ったが、しかし口ではなにも言わずに机の上に置かれたノートとシャーペンを彼方に差し出した。
 畳の上に転がったまま、彼方はひとまず絹糸を脇に並べて、ノートにペンを走らせる。
 まるで躊躇いなどない様子は、絹糸を見た瞬間から彼方の頭の中で絹糸の後先が決められていた証拠のようで、玄一は寝転がる彼方の背後にしゃがみこみ、古典柄を模した花が描かれていく様を観察する。

「ここにはね、この緑使う。花びらは白とピンクと薄紫もちょっと。薄い灰色で縁取りするとね、浮き上がって見えるんだよ」

 玄一を振り返りながら絹糸を指差し、彼方は自身の頭のなかにある配色を伝える。

「蘭か?」
「そう。地の色は黒でやるの。あ、でも経糸は赤で織ったやつがいいなあ。完全な黒じゃつまんないじゃん」
「夜に映えそうだな」

 まさか、着物は用意できまいが、大振袖全面にこの刺繍をあしらったのなら、さぞかし凄まじいものが出来上がるだろう。それこそ、仕立て代も。

「織りから注文たあ、お大尽だな」
「俺ねー、綸子が好きー。玄ちゃんは?」
「……石摺り」
「渋っ」
「うるせ」

 げらげら笑う彼方の頭をひとつ叩いてやれば、なぜか彼方は照れくさそうな顔で玄一を見上げる。

「玄ちゃんが石摺りの着流し仕立てるなら、俺が刺繍さしてあげるー」
「は」
「地の色と同じ糸で刺してね、それでねー、長羽織の裏にはね、派手なやつ!」

 それは、気付くひとが気付けば感心通り越して呆れてしまうほどのものだろう。
 いつか、文江が言っていた言葉を玄一は思い出す。

「これを着るのは、いったいどんなひとなのかしらね」

 絹織物を見事な深緋に染め上げた文江は、気を張りすぎてやつれた顔でしみじみと呟いていた。
 いつの時代も、職人は自身が手がけたものを手にすることなどない。どんなに血反吐を吐くような思いで創り上げたものだろうと、それは決して自分のものではないし、自分のものにはならない。
 しかし、玄一は生まれて初めてと言っていいほどの欲を抱く。
 もしも、彼方がほんとうに、ただその場限りの言葉でなく、玄一のために針を取る時がきたならば、そのとき使う糸は、自身が染めたい。
 玄一は家業において手が足りないときに手伝うことはあれど、戦力とはいえない。知識も実力も実績もない。強い欲を抱くには、玄一自身が見合わない。
 それでも。それでも、と玄一は声を張り上げたい。
 彼方が手がける全ての刺繍に使われる糸を、自分自身が手がけたいのだ。
 強いつよい執着が芽を出し、自分の中に根付くのを感じて、玄一はこくり、と唾を飲み込む。

「飯田橋……」
「なあにー?」
「お前は刺繍を職にしろ」
「へ?」

 ぽかん、とした彼方はペンを畳に転がして、甚く真剣な面差しで自身を見つめる玄一に怯む。

「大学は専門行って講師資格とってこい」
「ちょ、玄ちゃ……」
「修行先の工房は俺が家の伝手使ってでも探す」
「玄ちゃん」
「お前なら! お前の手ならできるんだよ!!」

 本人を置いてきぼりに熱を上げている自覚はあるが、玄一は湧き上がるものを抑えるつもりもなかったことにするつもりもなかった。
 彼方はとんでもないものになる。その確信が玄一にはあった。それで、どうして無視できるだろう。

「……玄ちゃん」

 どこか稚さが残る彼方の声音が、不思議と静かな響きで玄一の耳に落ちた。

「将来のことはね、分かんないよ。ひとりでどうこうできるもんじゃないもん」

 ぎり、と玄一は無意識に歯を軋ませる。
 分かっている。分かりきっている。だからこそ、そんな言葉を彼方の口から聞きたくなどなかった。

「だからね、俺がどうこうしちゃったときはさ、玄ちゃんが道連れんなってよ」

 彼方の手が伸びて、玄一の喧嘩で固くなった手に触れる。小指が小指を絡めとり、玄一は首筋に鳥肌がたつのを感じた。

「俺の将来をどうこう言うなら、お前のも寄越せよ」

 針よりも鋭い彼方の眼差しが玄一を貫き、玄一は一瞬呼吸を忘れ、小指の乾いた感触に口元が歪むのを自覚する。

「上等だ。くれてやるよ、飯田橋。てめえと俺は、一蓮托生だ」

 一方的に絡んでいた小指を強く、唐草のように絡めれば、彼方はにっと笑う。

「ゆーびきーりげーんまん」

 ――嘘をついたなら、針を千本飲ませる。

 結婚の誓いよりも厳かに、ふたりは将来を結ぶことを約した。

 とある染め職人と刺繍職人の、若かりし頃のはなしである。


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