小説




 玄一が彼方と後にセット扱いされるような出会いを果たしたのは、二年の冬だった。
 昼休み、玄一が絡む上級生を千切っては投げ、千切っては投げ、校舎裏に積み上げた帰り、昇降口までの道に並ぶ花壇の前に座り込む彼方がいた。
 当時、玄一と彼方のクラスは違ったけれど、玄一は彼方を知っていた。
 ぺたり、と汚れるのも構わずアヒル座りをする彼方の制服の襟と袖、縁取りするように施されたのは優美な刺繍だった。唐草を模したのか、連続する蔦から広がる花や蕾が、黒い制服を華やかにしている。
 制服改造をする生徒はいるが、彼方のそれは芸術的だった。だが、いくらそれが美しいものであっても、教師は彼方を咎めるのだが、彼方は決して従おうとせず、日々、制服の刺繍は広がっている。
 普段であればただのはみ出し者など気にも留めない玄一だが、彼方は別だった。その刺繍に、玄一は興味があったのだ。
 玄一は一瞬迷ったが、静かに彼方の元へ足を向ける。彼方はぼうっと花壇に咲くカレンデュラの鮮やかな橙色を見つめていて、近づく玄一に気付かない。

「おい」

 無反応。
 ぴく、と短気な玄一のこめかみがひくつく。

「おい、飯田橋」

 無反応。
 いらっときた玄一はずかずかと彼方に近づき、その襟首に手を伸ばし、引き摺り上げようとする。しかし、その襟に施された刺繍に玄一の手が止まった。
 薄青に青磁鼠の慎ましやかな蔦、黄櫨染に緋色の鮮やかな花と蕾が、連綿と続く襟に玄一の目が奪われた。思わず彼方の背後に座り込み、その襟を凝視した。傍目には座り込む彼方の首筋を覗き込む玄一の図なのだが、幸いにも通りかかるひとはいない。

(おいおい、まさかこれ……)

 玄一は彼方の制服に施された刺繍の基礎が、日本刺繍だということに気付いた。

(無茶だろう)

 制服の生地に日本刺繍など、と玄一は思い、だからこそ「基礎」だけであって、あとはまるでオリジナルといわんばかりにアレンジを利かせているのか、と思い至る。
 しげしげと玄一が刺繍に夢中になっていると、彼方の肩が一瞬震え、一拍置いてから盛大なくしゃみが発せられた。

「さびっ」
「だろうな」
「うえっ?」

 いつから座り込んでいるのか知らないが、真冬の外でコートもなしでは風邪を引きたい馬鹿としか思えない。
 彼方はようやく玄一に気付いたのか、ばっと振り返り、真後ろにいた玄一を認めると大きく仰け反った。

「だ、誰だお前!」
「秋田玄一」
「あきたげんいち?」
「おう」
「……やっぱり知らねえよ!」
「いま名乗ったろ」
「え? いや、え?」

 そういう意味じゃないといいたい彼方を察しつつ、玄一は彼方が振り向いたことで見えた別の方向から刺繍を眺める。

「じろじろ見てんじゃねえよっ」
「うるせえな。おい、袖見せろ」
「なんだよお前、なんだよお前!」
「秋田玄一っつったろ、二年三組な」

 きゃんきゃん喚く彼方をあしらいながら、玄一は彼方の腕をひょい、と掴み、袖の刺繍にも目を向ける。

「っはー、大したもんだ」
「え、え」
「これ、誰が刺したんだ?」
「これって……」
「刺繍だよ」
「俺だけど」

 玄一は彼方の顔を凝視した。
 少しばかり垂れ目で、整った部類の顔。同年代から年上の女まで、幅広く好まれるだろう顔立ちだが、同性の玄一からすればどうでもいい。せいぜいが、自分のきつい、と称される鋭い顔立ちと足して割れば丁度いいんだろう、と思うくらいだ。
 彼方は玄一の視線に居心地悪そうに、だが「なにか文句でもあるのかっ」と威嚇してみせる。

「お前が刺したのか? マジで?」
「そう! 祖母ちゃんの真似!」
「真似? 教わったんじゃないのかよ」

 彼方は口を尖らせる。
 曰く、祖母の刺繍はそりゃもう素敵だ。しかし、祖母は幼い彼方にほんの少し基礎を教えた以外では途中の刺繍に近づけることもなく、完成品と道具ばかりを遺して彼方が十歳の時に他界。以来、祖母の刺繍を観察して観察して、やってみた、とのこと。

「本読んだけどさー、こんなのに刺すなんてどこにも書いてなくてさー」

 適当にやりゃどうにかなんのな。
 にへ、と笑った彼方に玄一は愕然とする。
 彼方の刺繍は力任せの大雑把なところなどない。繊細な仕事に仕上がっている。だというのに、刺した本人は「適当」と言い切ったのだ。

「でもさー、糸がない」
「……あ?」
「祖母ちゃんの糸もうあんまりないしー、気に入った色がないのー。絵の具で染めたこともあんだけど、結局好きな色になんないし、すぐ色落ちるし!」

 ぷう、と幼いこどものように頬を膨らませる彼方に、玄一は暫し考えるように口元へ手をやる。

「ぶえっくしっ……さびい」
「おい、飯田橋」
「うぇ? なんでお前が俺の苗字知ってんの?」
「……糸欲しいか」
「きれーなの欲しい!」
「だったら、放課後教室で待ってろ」
「なんでー?」
「きれいな糸あるとこ連れてってやる」

 途端、彼方の寒さに白くなった顔がぱあ、と輝いた。

「行くー! 行く、行く! 早く!」
「だから、放課後だっつってんだろうが」

 立ち上がり、ぶんぶんと玄一の腕を振り回す彼方を引き剥がせば、不満そうな顔。まるでこどもそのものの挙動にため息をつきながら、玄一はもう一度彼方の袖に目をやる。
 襟と同じ唐草が一周し、ボタンの周りに襟にはない大きめの花がぱっと咲いた華やかな刺繍は美しく、光沢を放っている。
 もっと素晴らしい作品を、玄一は知っている。知っているがしかし、目を奪われたのは彼方のそれが初めてで、逃がしたくない、と思ったのだ。

「ぶわっくしょいっ」

 三度目の盛大なくしゃみにはっと我に返った玄一は、寒い寒いと騒ぎ出した彼方の頭を叩き、腕を引っ張って校舎に向かった。

「なんでぶったんだよー」
「馬鹿だからだろ」
「俺馬鹿じゃねえもん」
「寒い中座り込んでるのは馬鹿だろ」
「だって観察してたんだよ。帰ったらあの花の刺すの」

 ふんふん鼻歌を唄う彼方の腕を引いていれば、唖然とした視線が玄一を突き刺す。いかにも「あの秋田玄一が」といわんばかりの視線を睨み返しながら、玄一は彼方を教室まで連れて行った。ぽい、と暖房の効いた教室へ放り込まれた彼方は「わっほーい」と暖かさに喜び、隣のクラスに戻ろうとする玄一に手を振る。

「じゃあ、玄ちゃん、放課後なー!」
「誰が玄ちゃんだっ」

 不本意なあだ名に怒鳴れば、彼方は「わほーい」と笑いながら教室の中へと引っ込んでしまい、やはり突き刺さる視線に唸りながら玄一も教室へ戻る。
 昼休み終了の鐘が鳴ったのは、玄一が着席した直後だった。
 昼食を取り損ねた玄一はため息を吐きながら、午後の授業に臨む。
 その顔はどことなく、楽しみを前にしたこどものようだった。


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あきゅろす。
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