小説
九話
前崎亨は書類とノートPCへ交互に目を通し、時折眼鏡のブリッジを押し上げる。
その表情は無表情に近いものがあるのだが、亨のことをとても良く知るひとがいたならば不機嫌であると区別するだろう。
事実、亨の機嫌は良くない。悪いほうに傾いている。
理由は書類のなかにあり、ノートPCが映し出すものにある。
内容は転入生である遠江真雪について。
経歴と、この学園に訪れてからの行動。
校門を通った際の出来事に目を通す度、亨は睫毛を揺らす。
「迷惑だな」
破損したらしいリストバンドは学園側が管理しているスペアを既に渡されており、同じ出来事は余程でなければ起きないだろう。
結構なことであるが、亨が問題視するのは再発ではない。
既に起きてしまった出来事に関する始末だ。
防犯のために敷かれた行き過ぎともいえる仕掛けを容易く突破されたことに対し、どうして無関心、寛大でいられるだろう。
防犯対策は当然ながら無償ではない。
必要な資金、代金があって、専門家が考え、設置しているのだ。
真雪の行いで、どれだけの人間が不始末として奔走していることか。
範囲や社会的責任の程度に差はあれど、亨もまたその一人である。
故に、亨は「迷惑だ」と繰り返す。
書類にもノートPCのモニタにも真雪の容姿が添付されており、亨も確認しているが、亨は多くの学園関係者がしたように威容を恐れたりはしなかった。
不意に携帯電話が鳴動する。
「はい、もしもし」
初めて亨の表情が分かりやすくほころんだ。
僅かに上がった抑揚は、僅かに浮かれた亨の胸中を表しているのだが、電話の向こうの相手には伝わらなかったらしい。
幾つかやり取りをして、亨は惜しみながらも通話を終える。
表情は元の不機嫌に近い無表情に変わる。
「やっぱり、邪魔だな」
呟き、机に頬杖を突いた亨は書類に添付された真雪の写真を睥睨する。
「異分子は、いらない」
訪いを告げるノックの音。
返事をすれば、どこか陽気そうな青年が入ってくる。
「とーる、転入生くんの話なんやけど」
「副会長のこと?」
「もう知ってたん?」
「当たり前だろう。ぼくを誰だと思っている」
そりゃあ、と青年はにんまりした。
「丹色学園のおっかない……風紀委員長様ですわ」
翔は震えていた。
朝は寝ていたくて朝食をついつい抜いてしまう現代っ子の翔は、育ち盛りの食欲をいつも早弁や授業を放棄しての自主休憩時間に摂取する間食で補っていた。
けれども、同室者ができて初めて迎えた朝は規則正しい時間に起き出す羽目になった。
聞こえてくるのだ。
寮の部屋に設えられた簡易台所から「ヌゥンッ!!」やら「ふおおおおおお!!!」やら「破、ふンッ、喝ッッッ!!!」という雄々しい声が。
正直なところ、翔は全て聞こえなかったことにして夢の世界へ逃避したかった。現実なんて少しも直視したくなかった。都合の悪い事実は全てリセットしたかった。人生のリセットボタンを信じる浅薄な若者でいたかった。
こんなにも無情な現実に立ち向かえだなんて、それは「殺生な」というやつである。
雄々しい声を発している真雪が、翔の弱卒振りを許してくれるかといえばそんなことはまるでなかったのだけれど。
現実に存在してほしくない輩が最も現実を突きつけてくるという現実に、翔の頭はぐるぐると縺れた糸のようにこんがらがった。
ノックと開閉が一体となった斬新な入室の仕方で翔の寝室を訪れた真雪は、殺人鬼に迫られた乙女のような悲鳴を上げる翔の首根っこを掴んで寝室の外へ放って「朝餉の前に身支度をせい」と命じた。
がくがくと頷きながら見た真雪の姿は腕まくりしたシャツに腰巻きエプロンとトラウザーズという登校前の姿。
エプロンである。
台所から声が聞こえた上にエプロン、これは真雪が料理をしていた可能性が高い。
「あ、俺、いつも食堂――」
「三室よ、安心するがいい」
食堂へ逃げようとする翔に向かって真雪が莞爾とする。すごく獰猛であった。
「貴兄の分の朝餉は用意がある」
「あ、はい」
頷く以外、翔になにができたであろう。
悲しいのか怖いのか分からない心地で身支度を終えれば、確かに真雪は朝食を整えていた。
ただ、翔には見慣れぬ姿であった。
料理をしている最中の姿そのもののことでも、真雪という昨日知り合ったばかりの同室者のエプロン姿のことでもない。
翔は料理をしないし、しても精々味付けもてきとうなチャーハンで精一杯であるが、それにしても真雪の料理は違うと思うのだ。
テーブルへ置かれた皿に、金網を直で掴んだ真雪が焼き魚を移動させる。
金網である。
焼き魚の乗っていた金網である。
つまり、すごく熱い。
真雪の手は何度確認しても素手だ。なんの防具も身につけていない。
真雪は平然としている。
「……熱くねえの」
我慢できずに訊ねた翔へ、真雪はふん、と笑いながら鼻を鳴らす。
「ぬるい。あまりにもぬるすぎるわ」
翔はもう、目の前の香ばしい魚よりも死んだ目をしながら「へえ、そう……」と言うしかできなかった。
結局、翔は朝食の味も全く分からぬまま、真雪に引きずられるようにしながら登校することになる。
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