小説
八話



 かぽーん、と天井に立ち上った湯気からなる水滴が、風呂桶を打つ音が響く。
 場所は大浴場。
 多くの生徒が用いるために、場合によっては使えないことも考慮されて寮の各部屋には小さな浴室もあるのだが、真雪は大浴場の広々とした湯船にその偉躯を沈めていた。
 静かである。
 あまりにも、大浴場は静かである。
 それはそうだろう。
 この広い大浴場にいるのはたった、たった二人だけなのだから。
 一人は真雪。もう一人は彼を案内がてら入浴する翔。
 それ以外の先客は真雪を見た瞬間に一斉に湯船から上がり、股間にぶら下がるものを振り揺らしながら走って出ていった。幾人かは滑って転んでそのままの体勢で退場したので、風呂場で走るなという基本はやはり守るべきである。
 素早く情報が伝達されたのか、後からやってくるものは少なかったが、その少ないものも全て大浴場の引き戸を開いてからすぐに閉めて脱いだ服を着直し脱衣場を後にした。
 よって、この大浴場には二人しかいないのだ。
 翔は違和感があるほど真雪から距離を取って湯船に浸かり、時折ちらりと真雪へ視線を向ける。
 真雪と翔の間に会話はない。
 湯船に浸かってから、真雪は頭に手ぬぐいを乗せたまま無言で瞼を閉じていた。
 じっとりと湯船発の湿気とは違う、重たい空気が大浴場に落ちている。
 その空気にどっしりと肩を押さえられているように、翔はなかなか上がることができずにいた。
 既に体はぽかぽかと温まり、蟀谷を汗が伝っている。
 そろそろ上がらねば逆上せるのは必至と危機感抱く翔だが、彼のなかの不良なるヤンキー根性がただ上がってしまえば負けのような気がする、と未だに湯船へ浸からせる。馬鹿野郎である。
 ふと、真雪が深く熱い息を吐き出し、閉ざしていた瞼を開く。
 明らかになった眼は鋭くも深遠にして、湖面を征く小舟のような動きで引き戸へと向けられた。
 からり、と音を立てて開いた引き戸。
 視線を向けた翔がぎょっと驚く。

「どうも、こんばんは。ご一緒しても?」

 行儀よく伺うのは生徒会にて副会長として籍を置く七恵。

「この場は公共の場と聞く。ゆるりとすればよかろう」

 鷹揚に頷く真雪に、翔は思わずあんぐりと口を開けた。
 真雪は知らぬだろうが、と翔の内心は驚きでいっぱいなのだ。
 食堂で真雪に説明した丹色学園における生徒会の特殊性は、その待遇にも現れている。
 彼らはそれぞれ寝起きするのに一人部屋を充てがわれており、浴室も一般生徒のものよりもずっと快適な設えだ。
 現在の時刻は大浴場がそれなりに混み合う頃であり、彼らは間違ってもこんな時間に足を運ばない。
 そも、特別視される自分たちが一糸纏わず一般生徒のなかに飛び込むことの危険性を、代々先輩から説かれる彼らは理解しているのだ。余程豪胆であるか、変わり者でなければ自室の浴室を使う。
 それなのに何故、副会長が此処にいるのか。
 翔の驚きを置き去りに、七恵は手早く体を洗って静かに湯船へと浸かる。
 翔のように中途半端に距離を置くことなく、七恵は真雪のほうへ向かっていく。

「先ほど振りですね。学園のほうは慣れそうですか?」

 愛想よく訊ねながら、七恵は一瞬だけ翔を見遣る。
 翔は自身の名前にどんな人物像が一緒にされているのかを七恵が知っていることを察し、嫌そうな顔をする。
 生徒会役員という特殊な生徒に悪い意味で覚えられていれば、この学園内で過ごし難くなることはあっても、過ごし易くなることは稀だ。
 もちろん、風紀委員よりはずっと、ずっと増しだけれど。

「うむ、問題ない」
「それはよかった。外部とは大分違うでしょうけれど、好きになっていただければ嬉しいです」

 七恵はにこにこと、ほんとうに嬉しそうな顔をする。
 だが、真雪の言葉にその顔は曇った。

「慣れると好ましく思うことは別よ」
「……それは、なにかあって……?」

 無意識だろう。再び七恵は翔に視線を向け、すぐに真雪へ戻す。翔は隠さずに舌を打った。
 大浴場に反響した翔の舌打ちを叩き伏せるように、真雪の低く、太く、伸びやかな声がはっきりと言う。

「学園と聞いて参ったが、此処が真に学び舎であるとは思わぬ」

 良家の子息が多く籍を置いた丹色学園に対して、あまりな言い草だ。
 幸いにも翔や七恵は不快を浮かべなかったが、その反応は生徒たちのなかでどれだけいるかという稀なものだろう。
 多くの生徒は眉を顰め、不快だと声にすらしたかもしれない。

「学び舎とは知識さえ得られれば、それで善しとなる場であろうか」

 否、と真雪は断じる。

「なれば、家に師を招き、勉学のみの時間を過ごせばよいのだ。なれど、学び舎なれば違う。学ぶべきは勉学のみになく、培うものは算盤技術のみになく、養うは知識のみになく、育むは頭の発達のみにない」

 真雪の眼は翔を見て、七恵を見る。

「ともに学ぶ友がおり、先に後ろに同じ軌跡を辿るものがいる。そのものたちに接して、我らは『人間』を学ぶのだ」

 かぽ、ん、と水滴が風呂桶を打つ音が、殷々と響く。

「『ひと』と『ひと』の間に生きる術を、学ぶのだ」

 故に、と真雪は続ける。
 翔も七恵も、呼吸すら止めながら聞いた。

「『人』がまともにおらぬこの地は、学び舎であるものかよ」

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あきゅろす。
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