小説
二話



 白に対して辛辣な態度をとるのは、なにも生徒だけではない。
 幸いにも忍足は隼や千鳥をまとめて受け持っているだけあってお気楽な調子を崩さないが、あからさまな態度をとる教師もいるのだ。

「織部、これを全部解きなさい」

 数学の磯谷は黒板に書かれた教科書よりずっと進んだ問題に、白を指名した。
 進学校だけあり、予習復習をしっかりする生徒は多いが、それでも黒板に書かれている意地が悪い問題に殆どの生徒が苦戦するだろう。

「はい」

 冷たい目で白を見る磯谷に白けた顔をする隼と千鳥の間から立ち上がり、白は淀みない足取りで黒板へ向かう。
 白の長い指が惑うことなくチョークをとった瞬間、磯谷の眉間に僅かな皺が寄った。
 考えた様子もなく白は黒板に式と答えを書き、続けて次の問題へと移っていく。
 磯谷は進学校にあるまじき存在と目する隼や千鳥を下し、彼らの上に立ったとされる白に厳しい視線を隠さない。
 ただ、皮肉にも進学校であることが隼にせよ千鳥にせよある程度の自由を与えてしまっている。
 さらさらと解かれていく問題。
 此処、浅実では成績で多くのことが目溢しされ、融通される。
 全ては進学校としての名声と地位を保つために、成績優秀者様は優遇されるのだ。

「終わりました」
「……正解。席に戻れ」
「はい」

 磯谷は苦いものの混じる声で頷いたが、白がすれ違うときにぽつりと呟いた。

「丁寧で分かりやすい式だ」

 白は立ち止まらず、しかし目礼のみを返して席へ戻った。


 磯谷のような教育者とは別に、白を気に入っている教師もいる。剣道部顧問の杉田である。
 浅実では体育は柔道と剣道で選べるのだが、白が選んだのは剣道であった。
「柔よく剛を制すの概念からしてなあ」などと嘯く白は、大会における重量分けを密かに冷めた目で見ているのだが、そも、剣道だろうが柔道だろうが「道」になっているものに対する反応は鈍い。
 元はといえば殺人術、護身術。スポーツマンシップを説かれても、耳の穴に小指突っ込みながら「そっすか」と相槌を打てばいいほうだ。
 杉田は長々と睨みあったり、打ち合うのが面倒という理由で開幕即行で終わらせる白を見て、満面の笑みを浮かべていた。
 良いものを見つけた大人げない大人の笑みであった。
 発揮される理由はなんにせよ、白の技術はまさしく逸品だ。だからこそ「是非」と白に剣道部への勧誘を行ったのだが、白は帰宅部に夢中であった。

「織部がいればうちの剣道部は……」
「いやー、無理ですわー、俺帰宅部であることに誇り持ってるんで」
「なにを言っているんだ。お前の才能を見れば先入観で当たる連中だってな……」
「杉田先生、俺、部活はやらないって決めてるんです」
「なに? 部活で済まない、本気で剣道の道に進みたい?」
「先生、難聴ですか? 進みませんよ。タイムセール、逃すの嫌なんで」

 下校時にスーパーへ寄ると、大体どんぴしゃなのだ。
 白が一人暮らしをしていることを知る杉田は、生徒の生活事情を思えば強く言えなくなってしまって言葉を詰まらせる。
 だが、その顔は「でも」「しかし」となんとか白への勧誘を続けたがっていた。
 白は知らぬことであるが、授業の範囲であればともかく、杉田が指導する剣道部は殴り掛かるわ蹴り飛ばすわの警察剣道を少々穏やかにしたような大変激しいものだ。
「織部なら、絶対に膝を抜いて突きでやれるはずだ」と職員室で冷めた珈琲片手に愚痴を零す杉田の「やれる」という言葉は、どうしても物騒な漢字にしか変換できなかったと忍足は後に磯谷へ吐露した。



 磯谷のように教育者故に厳しい態度を崩さぬもの、杉田のように好意的なもの、それぞれぽつりぽつりと白という存在を見て好悪の感情をはっきりとさせるものがいるなか、やはり多いのは「不良の総長」という点で恐怖を抱くものだろう。
 まして、既に有名だった隼を退けてその位置についたのだ。腫れ物扱いするものの多いこと。

「お、織部くん」
「ハーアイ?」

 昼休み、購買帰りと思われる前髪の長いクラスメイトがビニール袋を腕にかけながら、小刻みに震える片手でプリントを差し出した。
 クラスのなかでは成績がよくないらしい彼が、よく他の生徒の使い走りにされているのを白は見かけることがある。特別思うこともないが。
 白はファンシーなデコ弁を容赦なく崩していた箸をとめると、クラスメイトのうっすら青褪めた顔を一瞥する。小さな悲鳴が聞こえたが、気のせいだろう。

「なんだい」
「お、おし、忍足せんせ、から、らしいよ!」

 らしい、とは恐らく彼本人が直接忍足から受け取ったわけではないようだ。別の生徒に押し付けられたと見るのが適当か。

「へー……」

 受け取ったプリントを読めば、部活、クラブの案内だった。
 杉田に勧誘はされても、そういえば案内自体はもらっていなかったな、と気付いて白はふんふんと頷いた。

「Merci beaucoup」
「え、あ、なんて……?」
「めるしーぼくー」
「あ、ああ……! どういたしまして!」

 クラスメイトは用が済んだことにほっとして、駆け足で教室の隅へ移動する。
 視界からクラスメイトが消えたところで、白はプリントをハート型に折って、机のなかにぽいっと放り込んだ。休みを前に机がぱんぱんになる生徒の特徴的な行動であるが、白がそんなへまをしたことはない。
 何事もなかったようにデコ弁崩しを再開した白に、紫おにぎりを食べていた隼が問いかける。

「やっぱり、どこにも入らないんですか?」
「oui」
「…………なんでさっきからフランス語なんですかねえ……」

 しかも、無駄に流暢である。
 磯谷のいびりといえるような態度への流し方といい、白の頭が想像していたものよりもずっと良いことに隼は少しばかり不思議な気持ちになる。
 決して脳筋と見做していたわけではないのだが、てっきり必要以上の知識は役に立たないと切り捨てる性質かと思っていた。
 それを遠回しに訊ねれば、白はブタの形に切り抜いたハムをむしゃむしゃと飲み込み、梟のように首を傾げた。
 一瞬首が落ちるかと馬鹿馬鹿しい想像をして、隼は心臓を押さえる。

「いんや、その解釈で間違っていない。俺は必要以上のことはしたくない」

 努力なんてくそくらえだ、と白は殻から顔を出すひよこに見立てたゆで卵を、箸で真っ二つにする。

「じゃあ、織部さんにとっては全部必要だったんですか?」
「それに対する回答はnegativeともpositiveとも言える」
「……否定的、肯定的、ですか?」
「Yes.yes.yes! ああ、やたらと外国語を使うのは頭が悪いな。だが、意味なく使っているわけでもない。
 何故か。いたって簡単だ。母国語でない。骨の髄まで染み付いているわけでもない。つまりは、脳髄に『定義』されていないからさ。
 定義されていない。どういうことか。単語一つに広い意味が含まれるということだ。婉曲表現、曖昧な言い回しを好む日本人だからこそ、こうして母国語に躊躇なく外国語を混ぜられるのかもしれないな」

 ひょい、とまさしく外国人のように大仰な仕草で肩を竦めた白は、白身から掻き出した黄身を口の中に放り込んだ。
 もぐもぐと食事に集中し出した白を見て、隼は煙に巻かれた、あるいははぐらかされたのだと思い、物言いたくなる口を黙らせるようにおにぎりを頬張る。
 どこか遠く見えた存在が学校という非常に日常的な領域に安住したというのに、住居へ入らせてもらい、今こうして視界に留められているのに、隼は白との間にいくつもの線が見えて酷く心細かった。

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あきゅろす。
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