小説
八話
己の思考と身体反応が運命の合致を果たしていると思われていないことに白はほっとするが、すぐに己の質問のせいで怪訝な顔を向けられていることに気づいて表情を陰らせる。下手を打った部下の始末を決めたマフィアのように怖い。
「……ちど……そうい名字訊いてな――」
「ああ、うん。千鳥でいいから。千鳥って呼んでね」
白はなんとか誤魔化そうと口を開くが、ふと千鳥の名字を訊いていないことを思い出す。
Hortensiaで聞いた名前は多かったが、白は全て覚えている自信がある。
しかし、多くの顔と名前を記憶のなかで組み合わせて一致させていくも、千鳥の名字部分だけは空白だった。白自身も結局「つくも」としか名乗っていないのだが。
なにゆえ、と思いながら呟けば、千鳥の早口が白の語尾をかき消した。
「即名前呼びをしろとか俺はそこまで距離なしじゃ……」
「千鳥だから。千鳥ちゃん。ほーらかわいいデショ」
距離なしどころか、容姿によって自動的に他者との間に城壁が築かれている白の防衛線を軽々突破するように、千鳥はまたしても早口で遮った。
ひゅう、と吹いた風が白の髪をひと房、あほ毛のように揺らしていく。
ひょいんひょいん揺れる髪を無造作に押さえつけながら、白は「千鳥チャン」と低い声で呼びかける。
「お前ほんとうにチャン付けで呼ばれて後悔しないのか」という裏の声が滲む呼びかけだったが、千鳥は「うん、なあに?」と華やかな笑顔で応えてみせた。白の敗北である。
「いや、うん、なんでもねーわ……」
「そ? ところで、こんな早くからどーしたの?」
「……俺が土手にいるのがそんなに不思議か」
「うん」
「……ちょっと健康を意識して」
「……ランニングの格好じゃないよね。なにしにきたの?」
「…………八極拳」
「………………その格好で?」
白は沈黙した。
どうしてひとは真実を追求したがるのであろうか。合理性を求めるのだろうか。
その真実が痛みを伴うものであると、何故想像しないのだろう。それでも、とどうして求めるのだろう。
合理性という鋭利な刃物を、どうしてどこまでも研ぎ続けるのだろう。その尖すぎる刃は誰に向けるつもりなのか。
端的にまとめれば「細かいこというんじゃないよ」と白は言いたい。
「まあいいや。ねえねえ、総長。八極拳もできんの? ってか、総長って絶対に何かやってると思ってたけど、八極拳だけじゃないよね? なんであんなに強いの?」
こいつなんでこんなにグイグイ押してくるんだろう、と思いながら、白は最後の質問にだけ答える。
「継続は、力だ」
「いや、あそこまで力つけるのってどんだけよ」
「……筋肉は動かしておかないと、いざというときに動かない」
「あんだけ動けりゃ十分じゃない?」
千鳥の目に白は余程、過剰な力をつけているように見えるらしい。
白としては少しおかしくなってしまう。
必要だから備え、備わり、維持、向上しているだけだというのに。
「ああいう動きで使う筋肉だけの話じゃない」
「……具体的に?」
何故そんなに食いつくのか、白は僅かに目を細める。
たったそれだけの仕草で、本人の意図しない酷薄な雰囲気が増して千鳥を圧迫する。
怖じるわけではないだろうが、微かに身を引いた千鳥は目を見開いた。
五メートルほど空いていた千鳥との距離を、白が一瞬で埋めたのだ。
千鳥は突然目の前に立った白にぱちり、とまばたきをして、それから「え、ええっ」と声を上げた。
「総長いまなにしたのっ?」
「膝抜いて二歩分を一瞬で移動、これを無拍子でやった」
「はい?」
「縮地法リスペクトしながら、お前の知覚が及ばないところで動いた」
千鳥は秀麗な顔を混乱に顰め「え、え?」と声をもらしながら、こめかみに手をやった。
「縮地って、漫画とかで出てくる……」
「漫画ほど大げさでなけりゃ、膝抜きだの二歩一撃だの普通にあるぞ。そうでなくとも熟達した剣士の飛び込みなら、五、六メートルを余裕に一歩で詰めてくるぞ」
「……むびょうしってなに」
「事前動作もちろん、呼吸だのなんだのを相手に感知させずに、行わずに動くやつ。いや、正規の定義は知らんから知りたけりゃ古武術の本でも買え。高校生男子がその辺買うと『あらあら』って目で見られること請け合いだがな」
「……ちょっとやってみて」
白は埋めた距離を再び開けた。
先ほどとは違い一瞬で、というよりもいつのまに、という動きで、確かに目で見ていたはずなのに行動前と結果の間に空白があるとしか思えず、千鳥はとうとう頭を抱えた。
「……総長、やっぱどっかで訓練受けたんでしょ」
「これに関しちゃ山行ったときに、なんかそこで住んでた爺さんと気配殺しを競ってるうちに弟子みたいになってただけだ」
野生動物すら騙し果せたところだったので、突然「若いのに大したものだ」と背後で呟かれたときは愕然としたものだった。白は今でもあの老人を妖怪だと思っている。
「『これに関しちゃ』ね……総長ってほんと何者だよ……」
乾いた笑いとともに呟く千鳥の声は先程よりも重く響くものを含んでいたけれど、山での日々に思いを馳せる白に届かなかった。
届いていたところで、白は興味を持たなかっただろう。
異端視されることも、値踏みされることも、白は慣れていたので。
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