小説
八話



 生まれながらに恵まれた環境にあった。
 生まれながらにこの世でなによりも幸運とされる縁を望めない身体であった。
 そのことに覚える情動などなく、久逸は周囲を煩わせたり気を揉ませるような態度を見せず、まるで日々をしあわせそうに過ごして見せていたのだ。
 それこそ、恵まれたお姫様のように。
 なのに、それなのに。
 微かにしか分からない気配。
 それがツガイの気配だとすら分からない自分に、久逸は人知れず打ちのめされていた。
 だって、触れられれば嬉しいのだ。
 手荒く扱われようと、距離がなくなれば郁紀が自分のツガイであると分かり、その感触も温度も心地よかった。
 もっと熱を分かち合いたかった。
 相手に溶け込んで、自分に沈み込ませて、同じ温度になるまで。
 ――なにも、実を結ぶことはないのに。
 ツガイがツガイに惹かれる最大の理由である、優れた種を残す能力が、そも生殖機能という根本から久逸には欠如している。
 だから、久逸にはツガイの気配すらまともに分からない。
 こんなものが側にいて、なんの意味があるというのだろう。
 そも、何故この不出来な身にもツガイが存在したのか、そこから久逸には疑問だ。
 久逸の身体がまともに機能していれば、という話なのだろうけれど。
 郁紀はいずれ、久逸にツガイとしての執着を薄れさせるかもしれない。
 ツガイとしての役に立たないのだから当然であるし、仕方がない。
 不要なのだ。
 郁紀にとっても、久逸にとっても、ツガイという繋がり、縛りは、意味がない。不要だ。いらない。必要ない。
 どれだけその存在に心安らごうと、熱に焦がれようと、久逸は郁紀のツガイとしてなんの役にも立たない。
 なんでも上げたくなるお姫様。
 与えられるばかりで、何一つ与えられない。
 ほんとうに欲しいものは何も手に入らない。
 たった一つ自分にしか差し出せないはずのものを、久逸は生まれながらに何処かへ落としてきてしまった。

「おひいさん、俺のこと好きだろう」

 酷いことを訊く。
 両親にも誰にでも、偽ることは簡単であった。
 満代のお姫様なんて呼び名がそもそも偽りの上に成り立っている。
 けれど、郁紀にだけは偽れない。
 嘘ではないことを言うだけで精一杯。
 真実など求めないでほしい。
 そんな、喉を焼け爛れさせるような、聞いた耳が腐り落ちるような毒薬を求めないでほしい。

「好きなんて、そんなことあるはずないでしょう」

 目が溶けそうなほど瞼が熱い。

「好きだなんて、そんな感情で収まるはずが、ないでしょう」

 理屈ではない。
 郁紀がツガイであると理解した瞬間から、久逸は荒れ狂った海の中にいる。
 息をすることもままならない。
 藻掻いても光なんて見えない。
 思考をする暇さえ何処にもない。
 ひたすら腕を伸ばして求めるしかないのだ。
 ツガイという舟を。

「ツガイは、結びつきなんですよ。私は最初から綻びだらけなんです。唯一無二、絶対の繋がりなんて、そんなものは所詮双方がなんの欠陥もなくて初めて成立するんですよ」
「おひいさんはそう信じるんだな」
「ツガイである理由がないのなら、いま感じている執心はただの錯覚です。いずれ、思考は出会う前に戻ります。だって、私たちは互いのなにを知るというのです。なにを好ましいと思うのです。なにを積み重ねてきましたか。
 理由さえなくしてしまえば、ツガイほど脆い関係もないのですよ」

 だから、どれだけ郁紀に応えたくても、その熱を独占したくても、久逸は突き放す。
 いつか、喪失感で死んでしまうことがないように。
 郁紀が去っても、自身から郁紀への執心が失せても、きっとこれ以上に胸を熱く占めるものは生涯出会うことがないと確信している。
 それを理解しながら、郁紀のいない生を歩むのは、あまりにも空虚だ。
 義務的にすら、なれないほど。

「じゃあ、試してみるか」
「失くしてからじゃ遅いんです」
「違う、もっと手っ取り早い方法だ」

 互いの執心が覚めるまで共にいるなどという方法ではないと、郁紀はくつくつ笑う。

「去勢してやるよ」
「……は?」
「いまの状態じゃ俺に雌としての機能はねえからどうにもできねえし、おひいさんの体質からしてこれからもねえだろう。だから、雄としての機能を無くす。この場合はパイプカットじゃなくて睾丸摘出のほうがいいのか?」
「なんの話をしているんです……」

 話についていけない久逸に、郁紀はあっけらかんと答えた。

「俺も種を残す機能なくせば、ツガイの意味なんてそれこそ考えること自体が無意味だろ」

 郁紀が久逸に歩み寄り、ゆっくりと頬に触れてくる。
 その手の熱さに擦り寄りたくなる衝動が湧き上がるけれど、久逸の身体は動かない。

「種を残せない俺はおひいさんをどう思うだろうな」
「…………当てこすりですか」
「いいや」

 頬に触れる手は、久逸の顔を掴むものに変わる。
 口を塞ぐように、力強い手の向こうからずい、と郁紀が顔を寄せた。

「俺はそれでもおひいさんを手放さない。何度も言ってるだろう? お前は俺の、おひいさんなんだよ」

 ぱっと手を放し、おどけるように両腕を広げて見せた郁紀に身体がふらりと後ずさりしそうになるのに、久逸の目は爛々と輝いて郁紀から離すことができなかった。
 もし、もしも郁紀がツガイの雄としての能力を失くしても久逸を求めるならば、その時は――

「俺にだけ笑って、俺にだけなんでもねだれよ。なあ、俺だけのおひいさん」



 ある役所からふたりの青年が出てくる。
 余程仲の良い恋人でもなければ、ひと目でツガイであると分かるほど仲睦まじく幸せそうに微笑み合うふたりだ。

「郁紀、二つ隣の駅に良いレストランがあるのを知っていますか?」
「もちろん、俺のおひいさん。今日はそこに行きたいのか?」
「はい。その後、お酒を飲みたいです。ねえ、郁紀」

 なんでもしてあげたくなる微笑みを浮かべ、久逸は郁紀にねだる。

「連れて行って、くれるでしょう?」

 郁紀は久逸の腰を抱き寄せる。

「もちろん。俺のおひいさんが望むなら」

 ――寄り添い合って腕を絡めるふたりが、役所の出入り口前の階段を降りたところでそっと唇を寄せたのを見た通りがかかりの人々は、これならばふたりに子ができるのは早いだろうと微笑ましく思って通り過ぎる。
 彼らは知らない。
 ふたりの間に実が結ぶ日など、ふたりが互い以外の間に実を成す日など、一生来ないのだ。
 それでも、それだから、ふたりは微笑み合い、ツガイとして身を寄せ合った。
 死が、ふたりを別つまで。


2017/3/10

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