小説
二話



 ツガイだと、目の前の相手は久逸に言う。
 殆ど反射、意識の挟む余地もない動きで、久逸は相手が掴む腕を振り払った。
 ばし、と存外勢いづいた音がして払われた手に、相手の目が僅かに見開かれる。
 その、思いもよらないことが起きた、という顔に久逸は眉を寄せる。

「私にツガイはいりません」

 特別抑揚が抑えられても高くなってもいない平素通りの声であると相手は知らないだろうが、ツガイとの出会いという人生における僥倖を前にしているとはとても思えないほど感情が動いていないことだけは伝わったらしい。
 一瞬だけ収縮した瞳孔、吊り上げられる口角。

「ツガイを見つけられるなんて思っちゃいなかったが、これはまた……想定外だ」
「左様ですか。私には関係のないことだ」

 失礼、と一言置いてその場を立ち去ろうとする久逸は、まるで厄介な昔なじみにでも会ったような反応だ。
 ようやく実感した気配も、しっくりと馴染む匂いも、相手がツガイであると理解しながら、名前すら訊ねない。
 不要であるから。
 この場を立ち去り、今後姿を探す気もないから。
 ただ、それは久逸の意向であり、相手にもまた関係のないこと。
 後ろから掴まれた腕はぎち、と締め付けられるほどに強く、後ろから腹を抱くように回された腕はやんわりと緩い拘束でしかない。
 けれど、先程のように振り払うには、大蛇が獲物を飲み込む前に獲物の全身を砕くような強固で凶悪な拘束だと、久逸には感じられる。

「……離しなさい」
「ツガイを? 俺が? 糞ったれな冗談だ」
「冗談ではない」
「そうだ、冗談じゃない」

 耳元で低く響いた声に全身が鳥肌を立てたのは、怖気が理由だったのか、それ以外であったのか。後々になっても久逸には分からない。
 ぎちり。

「ッづぅ……!」

 容赦なく耳へ立てられた歯に、相手を突き飛ばそうとこのときやっと動いたのだけれど、増々強くなる腕を掴む手の力と、込められた身体を抱きかかえる腕の拘束力に身じろぎすることしかできなかった。
 幸いなのか、耳はすぐに解放されたが、人体で尤も硬い部分を肉に突き立てられたという事実は変わらず、久逸は詰めていた息を慎重に吐き出しながら首だけを僅かに後ろへ振り向かせる。
 とん、と目元へ当てられたのは、恐らく唇だ。
 耳に残る痛みが、眼球と結びついて嫌な想像を掻き立てる。

「そう身を固くするなよ。お前は俺のツガイだ。酷いことなんてするわけないだろう?」
「たったいま、何をしたと思っているのですか」
「なにか悪いことをしたか? ああ……俺のツガイが食っちまいたいくらい可愛くてなあ」

 なあ、と耳にねじ込まれる声は、一瞬前よりも確実に重く低かった。

「俺が食っちまいたくなるような可愛いこと言うなよ」

 言外にツガイを不要という言葉を撤回しろという相手は、正しく蛇が獲物を絞め殺すように手にも腕にも力をじわりじわりと込めている。
 ひくり、と息苦しさに喉が鳴る。

「……私に、ツガイはいりません」
「…………言っただろう?」

 ぐ、と腹が圧迫されて、ひぅ、と息を吐き出す音が悲鳴の代わりになった。

「食っちまいたくなるようなことを言うなよ」

 無理やり抱え上げられ、引きずり込まれたのは使われていない教室の一室。
 嵐のような……嵐の航海のような時間を過ごした。
 ツガイとの出会いはこの上ない僥倖だという。
 ツガイとの触れ合いほど心安らぐものはないという。
 そんなもの、大多数が定めた統計結果でしかない。
 久逸は大多数から漏れた、少数だ。

「――満代久逸」

 散らかる制服の上にぐったりと倒れる久逸は、大儀そうに視線を上げる。
 自身を散々嬲った手が持つのは一新された久逸の生徒手帳。
 はらりと落ちた前髪をそのままに、愉快そうに見下ろしてくる相手が軽く生徒手帳を振ってみせた。

「まさか、ツガイがあのおひいさんとはねえ」

 誰が言い出したのか知らない妙なあだ名を、この相手も知っているのかと、久逸はゆっくりまばたきをしてそのまま閉ざす。
 身体のどこもかしこもが怠かった。
 眠気が襲うのは本能だというが、久逸にとっては冗談のような話だ。
 自身から興味が外れたと知る相手が、久逸のほうへ手を伸ばしてくる。
 ひたりと頬に触れる手は熱く、その手が項へ移動して上体を起こすのに久逸は欠片も協力せず脱力したままだ。
 制服を着せられるのも任せるままにしていれば、くつくつと相手がおかしそうに笑いだす。

「そうしてると、ほんとうに『おひいさん』だなあ」

 だが、と続けた声は低い。

「もう、俺だけのおひいさんだ。なあ、俺のツガイ」

 思い知っただろう、と目が、触れる手が伝える言葉を、久逸は叩き落とす。
 何度でも。

「あなたがなにをしようと、私にツガイは必要ない」

 ツガイから、ここまで明確に何度も拒絶されれば、きっと狂ってしまうツガイだっているだろう。
 なのに、相手はぐい、と間近に久逸の顔を覗き込む。
 その灰混じりの虹彩にはツガイを前にした歓喜とツガイを貪った喜悦、それらに頑丈な箍を嵌める強固な理性が瞬いていた。

「頑固だなあ、俺のおひいさんは。いいさいいさ、出会えるとも思ってなかったおひいさんの我侭だ、可愛いかわいいおひいさんの可愛い我侭だ。根比べくらい幾らでも付き合ってやるよ」
「……私は変わらない。私にツガイはいらない」
「ああ、ああ。おひいさんとの根比べも楽しみだな」

 まるで人形にするよう久逸を抱き締めて、つむじに頬を寄せた相手は確信を以て宣言した。

「勝つのは俺だけどな」

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あきゅろす。
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