小説
一話



 平均寿命を考えれば長くもないこれまでの人生は、無味乾燥として特別感慨深いとはいえないものであった。
 然れど、今更惜しむわけでもなく、そもその人生に異を唱えたり、退屈であると不満を抱えているわけでもなかった久逸は、現状にぎちり、と歯を唇へと食い込ませた。

「おいおい、おひいさん。お前何遍言ったら唇噛むのやめろって覚えるんだ」

 優秀な頭はどうした、と揶揄するように久逸の唇を割って、咥内へ入り込んでくる節張った指に舌を摘まれ、唾液が溢れた。
 むず痒くて指へ歯を立てたが、後ろから聞こえるのは愉快そうな笑い声だ。

「そんなに俺の指は美味いかよ。食って、腹に収めちまいたいくらいに」

 そんなわけがないのに、どこまでもひとの神経を逆撫でする言葉を選ぶ相手だ。

「いいぜ。ほら、血が出るくらい噛んで飲めよ。飲み込んじまえ。下ばっか腹いっぱいじゃあ、寂しいだろう?」

 腹の奥が痺れるような衝撃に堪え、久逸は大きく口を開けて喘ぐように酸素を求める。
 心臓が激しく脈打って、耳元で血流が煩い。
 視界は曇っているのか、白んでいるのか、少なくともまともではあるまい。
 ずるり、と口の中から出ていった指がそのまま首筋を這うように下がっていき、久逸のほっそりとした首を緩く掴む。

「おひいさん、お前はどうしたらさっさと認めるのかねえ」

 僅かに込められた力に眉を寄せ、首を捻ればその先に獣のような目をした相手が、郁紀が久逸と視線が合うなり莞爾とする。
 精悍とはこういった顔立ちを云うのだろうという郁紀の容貌に、まさか見惚れるわけもなく、きっとその余裕さえも与える気がないというように散々穿たれた箇所が深く突き上げられる。
 強く目を瞑りたい衝動を、理性か、あるいは天井知らずの矜持で叩き伏せ、上がりそうになる声を後々の不具合すら押して飲み込む。
 細腕など片手で十分とばかりに久逸の両腕は郁紀の片手で拘束されており、どれだけ抵抗しても外れない。
 もし、両手が自由であれば久逸は何に使っていただろうか。
 口を押さえたか、郁紀を殴っていたか。
 いいや、ただ自身から郁紀を追い出すための支えとする。それだけだろう。その後、乱れた衣服を直すのに使い、久逸の両腕は彼の身体の横でうつくしく揺れるのだ。
 頑なに郁紀を拒む態度は、実際に取らずとも見透かされているのだろう。
 いつか、手首同士を拘束された状態で郁紀の首へ腕を通さされたことがあった。
「おひいさんに縋られるなんて良い日だなあ」とおかしそうに笑う郁紀の顔が近く、久逸は首を反らした。
 反抗的に見える仕草にさえ郁紀は怒らない。

「ああ、俺のおひいさんは強情だ」

 どれだけ郁紀が「認めろ」と強要してきても、暴力のように身体を奪われても、久逸は郁紀を拒絶する。

「私はあなたのものではない」
「いいや、俺のものだ」

 今日、無理やり身体を繋げてからどれほど振りかになる、久逸から向けられる明瞭な意思に嬉しそうにしながら、郁紀は間髪を容れず否定する。

「おひいさん、俺の久逸。お前は俺のツガイだよ」

 言い聞かせるように、浸透させるように、久逸を深く抉りながら郁紀が断言する。
 声を抑えるのは、言葉を抑制するのは、自分ではなく郁紀であるべきだと久逸は手の不自由さを恨む。

「私に、ツガイはいらない」

 くつくつとと煮えるような笑い声と、滲む怒りの気配。
 郁紀は久逸の反応も意思も受け入れるけれど、個別に感情を持たないわけではない。
 ただ――

「そんなに俺と根比べを楽しみたいのかよ」

 怒りを上回る楽しげな様子。
 どんな感情にも大きな喜悦を伴っている。
 激しさを増した律動に繰り返す呼吸が酸欠を呼び起こしたのか、脳裏に思い起こしたくもない郁紀と出会ったときの記憶がぼんやりと浮かび始めた。



 ツガイという唯一無二の相手と出会う確率は、世界人口が七十億人を超えた現代においてどれだけ稀有なことだろうか。
 ツガイ同士は不思議と引き寄せ合うのか、同じ国内で生まれる率がそこそこ高いし、他国間で生まれても思い立って旅行に出かけた先で出会うこともあるというのが統計で分かっているけれど。
 憧れの先にある恋とは決定的に違う、今まで回ってきた世界の中心、軸が一瞬で変わってしまう存在を求めるものは多く、専門の出会いを設ける機関もある。
 少ない確率であっても求められるのは、ツガイ同士の絆という表面的な憧れは勿論、現実的な利益としてツガイ同士の間に生まれたこどもはギフテッド、タレンデットである可能性が高いのだ。二種に分類されずとも、平均より優秀なこどもが生まれることは間違いない。
 法整備がされる以前はツガイ同士の間に生まれたこどもを「買う」層も一定存在したが、現代ではその審査も特殊機関が設けられ「不幸」を減らすべく尽力されている。
 ツガイと出会うことはこの上ない僥倖というのが世間的な認識だ。
 満代久逸はツガイ同士の間に生まれた子どもであった。
 女性的ではあるが秀でた容姿に、優れた頭脳。生家も裕福で何一つ不自由なく育った。
 心の豊かさ以外は。
 何事も久逸にとっては義務以上のものに感じられなかった。
 食事を取るのも、音楽や絵に触れるのも、両親とともにテーマパークを訪れるのも。
 そうして、微笑むのも。
 どれも、久逸には感情を揺らすものではなかったけれど、楽しむべきものであり感謝すべきものであり笑うべき場面であるとすれば、久逸は義務的に心から微笑んだ。
 幼い頃は増々少女めいていた容貌の久逸が微笑んで嬉しそうにしていれば、周囲の大人は相好を崩してあれもこれもと与えたがる。
 その様子についた呼び名が「満代のお姫様」という大変滑稽なものだ。
 その滑稽さすら、久逸の感情を揺らすには遠い出来事だったのだけれど。
 そうしてお姫様の評判が崩れるような成長の仕方もせず、美しい青年へ育った久逸はとうとう十七歳の年齢を数えるまで感情的になるということを知らずに生きてきた。
 転機は通っていた高校が以前からの計画通り別の地域にある高校と統合されることになり、それまでとは違う校舎、新しい顔ぶれのなかに混じることが決まった年のこと。
 始業式の日。温暖化の影響か、既に葉桜になりかけている桜に思うこともなく講堂を出て、久逸は周囲を見渡した。
 講堂へ向かうまでは確実になかった匂い、気配のようなものを感じたのだ。
 けれど、すぐに気に留めることもなくなって教室へ向かい、教師の話を聞いて、クラスメイトと必要なやりとりをするだけの一日を過ごした。

「ねえ、知ってる? こっちの高校、なんかやばいらしいよ」

 既に帰る頃になっても教室の隅で会話を続ける生徒の脇を通り抜け、同じく帰宅しようとする生徒でごった返す階段に久逸はそのまま足を人気のない中央階段へ向けた。
 一段、一段、降りていくと、何かに沈み込んでいくような錯覚がして奇妙だ。
 その奇妙さを突っ切るように一段、一段とまた降りて、久逸は暗い影を見つける。
 否。
 それは影ではなく、中間踊り場の壁に背を預けて佇む生徒だ。
 精悍な顔つきに、よく締まった体格。良い意味で久逸とは対極だ。
 一秒、その生徒を見つめて久逸は彼の目の前を通り過ぎようと歩き出したが、それは叶わない。
 通り過ぎ様、掴まれた片腕。
 驚くより早く、腕を引かれて久逸の痩躯は生徒の腕に閉じ込められていた。
 久しぶりに驚愕というものを覚え、目を見開く久逸の前で彼は嬉しそうに、獣のように、目で、口で、弧を描いた。

「おいおい。ツガイに出会って素通りとか、冷たすぎないか?」

 言葉の内容を認識するより早く、講堂を出たときに感じた匂いと気配が、濃密になって彼から立ち上った。

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あきゅろす。
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