小説
二十一話
沈黙。
静寂。
硬直した潔志は背中にどっと汗をかいていた。
(待って)
なにが楽しいのか四十歳のおっさんの頬を撫でる目の前のおっさんは、己に何を言ったのか。
否、己をなんと呼んだのか。
(産志穂……?)
聞き覚えがあるどころではない。
経咲比古という名を聞いたとき以上の衝撃が潔志を襲う。
顔の向きも視線も動かないまま、意識は己が携える神剣へ注がれる。
その神剣こそ、名を産志穂之剣。
鎮劔神社本来の主祭神である産志穂神そのものとも云われる、正真正銘の神剣なのだ。
その神剣の、神の名で何故己を呼ぶのか。
潔志は特別聡明ではない。
それでも己の意図が端を発した糸で点と点を結ぶことは可能であった。
系譜名。
聞き覚えあれど、異世界の神など知らぬ潔志は己が経咲比古とはなんら関係ないことを証明しようと、姓名を名乗ったのだ。
それを目の前の男は産志穂と聞き取る。
そも、潔志とこの世界の人間は発する言語が異なるらしいのに、自らの知る言語に変換されるのでそれを潔志は殆ど忘れていた。
置き換えのできない言語は変換がされない。
だが、そもそも真実変換は正しく行われているのだろうか?
文明の全く違う世界である。意思疎通がとれている以上は、問題はほぼない。変換の精度は確かなものなのだろう。でも、それは十割か?
極々近しい言葉に過ぎない可能性は?
姓名。名前。個人の識別記号。
系譜名という、系譜の祖を冠する名。個人の質の由来を源を音とする、名。
経咲比古は男の名だ。
経咲比古が男として記されているのは、西聖典でも、東聖典でも変わらない。
けれども、それが系譜名であったなら?
もしも、系譜の祖と個人との「違い」が「変換」されたものであったなら?
「ねえ……」
乾いた喉から、ひりついた喉から、潔志は問いの声を絞り出す。
金色の目は許しの色で輝いて、「ん?」と潔志の顔を覗き込んだ。
「あなたは……――相刃を知っているの」
相葉の祖、相刃。
母神である経咲比売に遣わされた産志穂神とともに地に蔓延る穢れを斬り祓い、その後は産志穂神と経咲比売を社に祀り、生涯仕えた男。
経咲比売が相葉の血に、相葉の男児に目をかけるようになった理由、切っ掛け、始まり。
神代の話だ。
異世界の、神話だ。
目の前の男の瞳孔がきゅう、と細くなる。
「やはり、縁結びしものか!」
両の腕を広げ、呵々大笑。
歓喜の表情。
「産志穂や、そなたは『経咲比古』の何なのだ?」
音に聞いて経咲比古。
けれども、潔志がこの世界で何度か経験する「変換」は、その音を「相刃」と訳した。
昔話をしよう。
とても、古い昔むかしの話を。
いまへと続く、始まりの話を。
青年は右も左も分からず、右も左も姦しく、何故こんなにもこの世は煩わしいのかと不思議に思った。
斬ればいいのに。
斬れば、なにもかもが解決するのに。
家族も友人も世話になったひともなにもかもを脅かした恐ろしいものだって、斬って祓えば終わってしまった。
また、現れるかもしれないからと青年のもとへやってきてくださった神様は、今でも青年のそばへいてくださる。
つまり、また現れたとしても神様とともに斬れば、解決するということだ。
斬ればいいのだ。
斬るのだ。
帰らなければ。帰りたい。
斬ろう。
斬る。
青年は斬った。
斬って、斬って、斬って、斬って、斬って祓って、斬って。
何処へ行けばいいかなんて分からなかったので、ただふらりと歩き出した方向へ真っ直ぐ進みながら斬り続けた。
だんだんと寒くなるのは土地柄か、それとも静寂のせいか。
斬って祓って進む青年に涙するものたちがいても、その涙を斬ってしまえば泣く理由をなくして涙の理由が分からず虚けに落ちた。その頃には青年は別の何かを斬って進んでいたので後ろには気づかない。
進み続ける青年に恐怖したのは、偶然、ほんとうになんの意図もなく青年が進むことを決めた方向、地方を居とする一族。
別の一族と存亡を賭けた戦いの最中に現れた青年は、勇ましく戦っていた一族に恐慌の涙を流させるほどの戦乱をたった一人で引き起こす。
止まらぬ青年。
斬り続ける青年。
進行のままに一族が根絶やしにされることを良しとする頭領などいない。
一族の頭領は青年へと立ち向かう。
青年は不思議であった。
ただ、斬っていただけなのに、何故このように怒りを向けられているのか。青年にはちっとも理解できなかった。
斬らねばなにも解決しないし、斬れば全てが解決するのに。
そういえば、と青年は思いつく。
ひたすら進んできたとはいえ長い道中、青年は一族が別の一族と戦いのなかにあったことを薄っすらと聞き及んでいた。
そんな戦いさえも斬れば解決するだろうに。
そうだ、そうだ、そうなのだ。
斬ればいいのだ。
争いは気枯れを招く。
争いによって積み重なった屍は、気枯れが寄り付き、土地を腐らせる。
終わらせよう。
斬って、祓って、おしまい。
戦う理由、立ち上がった理由、立ち向かった理由、広げた腕、その全てはナニカを大切に思うが故であった。
理由も両の腕に抱き締め慈しんだものも、斬り取られてぽっかりとなくなった頭領が叫ぶ。
青年は応えない。
だって、青年はようやく見つけた。見つけてもらえた。
青年を誰より何より慈しむ存在。
青年を支えた神様を遣わした女神様。
遠くまで迷子になってしまった青年は血筋までも女神様に抱き締められて、ようやく帰還する。
そうして深く頷くのだ。
やっぱり、斬れば解決するのだと。
――そんな昔話があったのだ。
時は流れに流れ、青年の血は脈々と受け継がれ、とうとう青年とよく似た魂を持つこどもが生まれる。
青年そっくりなその子に狂喜する女神様を見て、神様は思いました。
「あ、これ俺が子守しないとまずい」
でもでも、可愛い。
ときが経つほど尚々、可愛い。
神様はこどもを大事にだいじに、可愛いかわいいと慈しみました。
神様は、剣の神様は、斬るために産み落とされた神様は、誰よりも何よりも近く、こどものそばにいるのです。
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