小説
二十話



 魔族の頭領、暗惡帝。
 彼の存在について、バリオルは勿論のこと魔族でさえも知られていないことがある。
 人間は生まれて物心がついてからの記憶しか持たない。
 されど、暗惡帝は違った。
 幾千、幾万と重ねた時間の記憶がある。
 それは遥か、神話の時代にまで遡り、暗惡帝は肉体が朽ちては新たな肉体に記憶を……記憶を保有する魂を移し替えて今日まで存在してきた。
 故に、暗惡帝と呼ばれる彼は紛れもなく神話の存在であり、バリオルが信仰する世界を統一せしめた一柱の神、経咲比古と刃を交えた本人、そのものである。
 摂理を外れ、神話のときより肉体を幾度も移し替え、彼の意識は茫洋と肉体と乖離することがしばしばあったが、この時代でようやく定着することができたのだ。
 久しき時間は彼に変質を齎さなかった。
 決定的な変化は既に強いられ、以降一切の変容を知らなかった。
 その時代、その時代で喪われゆく同胞、忘れ去られてゆく事実は歴史に埋もれ、最早自身しか知るもののいない名を伝えた花は枯れた。
 彼の心は動かない。
 かつて持ち得ていたものがないのだ。
 取り落としたのでも奪われたのでもない。
 斬り取られたまま無理やり繋ぎ合わされ、元のそれが何であるか分からない。
 見つけなくてはならない。
 己が己であるために、我が我であるを是とするために。
 たとえ、元の己というものを認識できなくとも、それでも己というものが変わり果てたことだけは理解しているのだ。
 どうして自らの存在を捻じ曲げられていることを良しとできるであろう。
 足りない、足りない、失われた何か。
 埋めるために、補うために、理解するために方々へ手を伸ばしたけれど、得たものになんら価値を感じることはなく、そして耳にした神子の降臨。
 沸き立つ血潮、高揚する胸中。
 ずっと、待っていた。
 そうだ、ずっとずっと待っていたのだ。
 消えない斬響が大きくなる。
 逃すまいと叫ぶ声すら斬り裂いて姿を消した経咲比古の斬響が、こちらへ向かってくるという神子とともに大きくなっていくのだ。
 束の間の邂逅に確信する。
 神子ではない。
 あのものこそが、彼の待ち望んだ存在だ。

「――待ち侘びたぞ、経咲比古」

 暗惡帝は、悪路王は、×××は至って平然と開かれる扉に向かい、笑みを浮かべた。



 やや重たげな扉の前に立ち、潔志は「ここだねえ」と呟いた。

「ここに……?」

 背筋を震わせるフェートにこっくりと潔志は頷き、扉を掌で撫でる。
 細める目の動きに合わせて笑い皺が深まり、童顔とはいえ確かに重ねた四十年という年月を思わせた。
 平素、潔志は落ち着きがないのではないかと思えるほどに、若々しく、無邪気だ。
 人間としての深みがない。
 斬撃しかないから、斬撃で完結しているから、人間として悩み、成長、成熟、老成することは、潔志にとって無縁であったのだ。
 人の道に外れた生き方である。
 けれども、潔志にとって斬ることは当たり前であり、当たり前とは三大欲求に等しいほどのものであり、斬りたいとはつまり欲望であるからにして、人間しか持たぬ欲望に染まりきった潔志はきっと、なによりも人間らしい。
 人間らしさの極地を体現する潔志を、こんなものが人間であると、同じものだと認めたくない多くの人間が忌避したのであった。

「行こうか」
「……はい」

 なんら気負うものなし。
 潔志は変わらぬ様子で扉に手をかけ、そっと開いた。
 目の前に広がるのは異様な空間。
 広々とした石造りの広間は壁に取り付けられた燭台の灯明によって、仄暗くも見渡せる程度には明るい。
 広間には無数の刀剣が宙空へと浮遊し、固定されていた。
 糸で吊るされた様子もなく、真実刀剣は浮遊している。
 果たして、刀剣の広間の最奥に彼はいた。

「幾千、幾万、朝と夜を繰り返し、この瞬間をようやく迎えた」

 とてもうれしそうな声音。
 恋い慕うものに出会えたような、死別したものと信じた朋友と再会したような、離別の運命が再度結ばれたものの声。
 大儀そうに椅子から立ち上がるも歩く姿は軽快で、重厚な衣を捌く音すら小気味いい。
 見た目だけでいうのなら五十路ほど。唇の上をなぞる髭が貫禄と魅力を引き出している。
 短い黒髪を後ろへ流した彼は、金色の目で真っ直ぐに潔志を見つめた。

「そなたを斬らねば終われず、始まらぬのだ――経咲比古」

 斬る、という言葉にフェートがぞっと総毛立つのも知らず、潔志もまたしゅ、しゅ、と衣擦れの音をさせて進み出る。
 片手に神剣、顔は眉を下げた笑み。
 困り顔の潔志は考えるように視線を巡らせ、それから視線を彼へと戻す。

「初めまして、相葉潔志です」

 系譜名。
 女児を発狂にまで追い込んだ名乗りは挨拶とともに。
 対する彼は目を僅かに丸くし、それから不思議そうに首を傾げる。

「そなたは、経咲比古ではないのか? いいや、それはあるまい。その魂も、魂に絡みつく腕も、その剣も!」

 彼は笑う。

「余を斬り裂いた経咲比古そのものではないか」

 音もなく歩みを再開させて、彼は潔志の前に立つ。フェートの引き攣った悲鳴など彼も潔志も聞いていない。
 ただ、目の前の存在のみを見つめている。
 それは、まるで値踏みするように。

「俺はあなたと初対面だよ。経咲比古という名前に思うものがないわけではないけど、間違っても俺の名前ではない。それは俺の系譜名とやらからも分かったんじゃないかな」
「それが不思議なのだ。こんなにも、こんなにも待ち焦がれた経咲比古そのものであるというのに、何故そなたは……」

 彼の手が、剣を握り慣れたものの手が潔志の頬へ這う。
 愛おしいものに触れるような手つきで、狂おしい想いを込めた眼差しで、彼は潔志に接する。
 けれども、彼が呼ぶように、それは潔志に対するものではないのだ。

「――産志穂なるや」

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