小説
憧憬と友愛〈憧憬未来if〉



「僕は昌太郎さんのね、きらきらしながら真っ直ぐ歩く姿が、ほんとうに大好きだったんだよ」

 掠れた声も、冷たい手の感触も、全部覚えている。





 三上は腕に抱えた花束のむせ返るような匂いに咳払いしながら、アスファルトの上を歩いていく。
 今日はとても良い天気で、空は晴れ渡り、気温は涼しくも穏やかだ。青い水に一滴落とした白い絵の具のように、雲が掠れて伸びていく。
 時折吹く風が薄いコートの裾を揺らすのにくすぐったさを覚えながら、三上は腕が疲れたので花束を持ち変える。
 二十歳から老化は始まるというけれど、三十一歳でこれでは少々運動不足だな、と日ごろデスクワークの多い三上は苦笑いした。
 ふと、鳥が頭上を過ぎったのか、視界を一瞬走った影に目を閉じた三上は、開いた視線の先に人影を見つけて立ち止まる。
 丁度、自分も用のある場所に立っているのは、同い年ほどの男で、遠目からもその恵まれた体躯が分かった。

「……結城さん」

 三上の呟きが聞こえたわけではあるまいに、ぱっと顔を上げた男は三上を見つけ、一瞬立ち尽くしたあとに会釈した。
 三上は自分でも驚くほど動揺しながら会釈を返し、ぎこちない動きで歩み寄る。
 近づく三上に微笑みかけた男の顔は穏やかで、十代の頃のような快活さはないものの、人生の重みを感じさせた。

 たった十数年、いや、数年で、結城昌太郎という男は老成してしまった。

「久しぶりだな、三上」
「え、ええ……お会いできるとは、思いませんでした」
「俺は会うような気がしていたよ」

 昌太郎は首だけで振り返り、先ほどまでじっと向かい合っていたものに愛しげな視線を向ける。三上も釣られて視線をやり、一瞬詰まった呼吸をやり過ごす。

「そう、ですね……会うのも、当たり前かもしれません」

 白い墓石に、香る線香。霊園のなかではありふれたそれが、縁のものにとっては特別で、どうしようもなく胸が痛い。

 ――今日は、響の祥月命日だった。

 ざあっと吹いた風に運ばれるように、三上の脳裏に誰よりうつくしかった友人の顔が過ぎる。
 年々マシになっていったという身体は、誰よりも老化に敏感だったのかもしれない。
 二十三歳を境に体調を崩すことが激増した響は、治療の甲斐なく二十七歳で息を引き取った。
 やつれきって、顔色も悪く、決してその顔は十代の頃とは違うはずなのに、どうしてだろう。三上には響の死に顔以上にうつくしい顔を知らない。
 それは、響がまるで苦しいことなんてなかったように、ただ幸福だけを抱きしめていたように微笑んでいたからだろうか。

「あいつ、最期まで、死そのものすら、俺のために準備していたんだ」

 昌太郎は苦笑いしながら三上を招き、空の花立を外す。昌太郎は花を用意しなかったらしい。

「今年で三十一、響が死んで四年。滞りなく日常を過ごすには十分で、あいつがいない日々を日常にするのにも十分で……俺が再出発するにも十分で」

 花を整える三上の背中に、独り言のような昌太郎の声が落ちる。
 その一つひとつは穏やかな声音であるはずなのに、とても痛々しい響きで以って、三上を、昌太郎を痛めつける。

「あいつは誰より早く自分の死期を悟ってた。その瞬間から養生していれば、まだ、響はこんなとこにいなかったかもしれない。でも、あいつはそうしなかった」
「晩年、まるで死に急ぐようでしたね」
「あいつは自分が死んで、使い物にならなくなる俺を分かってた。立ち直る時間まで計算してた」

 水を差した花立を元のように戻し、響は墓石の回りに水を撒く。

「だから、下手に生きようと足掻くことをしなかった」

 からん、と柄杓が桶に戻されて、乾いた音をたてた。撒いた水に冷やされたのか、空気がひんやりと三上の指先を冷やす。

「ご婚約、されたのでしたね」
「ああ」
「どんな方ですか」
「……肉まんみたいな? ふかふかして、暖かい女性だ」

 昌太郎の声音はやさしい。婚約に抱く感情は義務だけではないのだろう。しかし、痛い。
 振り返った三上は、泣きそうな顔で笑う昌太郎に「おめでとうございます」と礼をした。
 響は最期まで、昌太郎のことだけを思い、死んでいった。
 ただ生き延びることだけに専念すれば、三十半ばまで生きられたかもしれない。しかし、やはり死んだのだろう。そうして、遺された昌太郎は打ちひしがれ、悼みに耐えるだけで精一杯の数年を乗り越え、その年齢は四十路に届くか。
 新しく人生をやり直すには、心許ないだろうか。
 自分がいないあとの日々を、ただ孤独に過ごさせる気など、響にはなかった。
 自分という過去を清算できるだけの日々を過ごしてなお、やりなおしが利くように、そう、響は考えて、計算して――

「きみは、最期のさいごまで、ほんとうに勝手なひとだ」

 潰れたような声で、三上は拳を握る。ぼたぼたと涙が地面に染みをつくる。
 礼をしたまま上げられない三上の頭を、昌太郎がぐっと引き寄せた。
 昔、三上が昌太郎に抱いた感情は静かに消化されて、焦がれた腕のなかにあっても、胸中を燃え上がらせることはない。けれども、この瞬間だけは縋らずにいられなかった。
 ほんとうに辛いのも、泣きたいのも昌太郎だった。
 最愛のひとが自分のせいで早死にしたと悟ってしまう、男だった。
 そのひとを、ただひとり、この場所で立たせることができなくて、三上はその胸に縋るようにして支える。

「…………愛してる。愛してる、愛してるんだ……!
 誰より愛してる! いまだって、こんなに胸が痛い、こんなに哀しいのに……っ、あいつが、響が、俺に進めって言ったから! 真っ直ぐ歩く姿が好きだと言ったから!! だから……っ」

 堰を切ったように叫び、三上に覆いかぶさった昌太郎の涙が、三上の肩口に染みていく。
 胸を切り裂くような声が痛くて、もういないひとが哀しくて、三上は昌太郎の背中に手を回しながら、声もなく涙で顔をぐちゃぐちゃにした。
 なんで死んだ。なんでこの男を遺していった。
 何度だって言いたかったけれど、分かってる。

 ――誰より彼のそばで生きていたかったのは、きみだった!

 それが叶わないから、せめてもの手を尽くして、全身全霊で愛した存在の隣を譲ることさえしてみせた。
 強いひと。強すぎたひと。
 もう、いない。
 もう、どこにも響の姿はない。
 目の前のちっぽけな墓石にだって、響そのものはいないのだ。
 今更になって、そんなことを強く実感して、三上は堪え切れない嗚咽に身を震わせる。

「うあ、うああ、わああああああ!!」

 きっと、今日が節目だ。区切りだ。
 だから、こんなにも涙が止まらない。
 決して戻らない。手から離れてしまった彼のなにもかも。
 過去になった。過ぎてしまった。それを感じて、三上は泣く。同じように泣く昌太郎を、今だけは強く抱きしめて、過去の憧憬と友愛を飲み込むように泣く。


 僕はあの友人が大好きだった。
 ほんとうに、大好きだったのだ。

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