小説
十七話



 一人の人間が発狂する瞬間を目にするなど、一体どれだけのひとが経験するであろうか。
 理知と心をこの世から失った女児を、フェートは呼吸を忘れて凝視する。

「あー……斬るつもりはなかったんだけど……斬れちゃったみたいだね」

 苦笑い。
 廃人と化した女児を見下ろして、潔志は苦笑いする。
 フェートは信じられなかった。信じたくなかった。
 神子を信じたくないと思った!
 だって、だってだってだって、どうしてこの光景を前にそんな態度でいられるのだ。
 斬ったというからには、直接手出しせずとも潔志がなんらかの原因となったのであろう。
 己が一人の女児を廃人に追い込んでおきながら、どうしてそんなにも平然と、日常の有り触れた段差に躓いた程度の反応で終わらせられるのだ。
 フェートの声にならない訴えが届いたのか、潔志が振り返る。

「どうしてそんな顔をしているの?」

 潔志こそ、どうしてそんな言葉を吐けるのか。

「フェートくんは決めたんだろう? 奪ったのだから奪われるのを仕方ないとできないって。奪い続けることを選んだのだろう?」

 違うと叫びたかった。
 けれど、潔志の正しさをフェートは理解している。
 震えのような動きで首を振っても、潔志は止めてくれない。

「バリオルは、フェートくんは俺に言うよね。暗惡帝を討ってくれって。暗惡帝だけが『魔族』の支えなんだって、討たれればおしまいなんだって、分かってるから魔族はみんな武器をとったのではないの?」

 潔志の視線が振り返るのは、ツァーレを置いてきた方向。
 多くの魔族たちの屍積み上がり、未だに血が流れ続けているであろう場所。

「縋っていた存在を失って、周囲には敵しかいなくて、自分たちは『悪』で、ねえ、もう一度立ち上がれるひとってどれだけいるのかな?」
「………………最初から、そうお考えだったのですか?」

 潔志は首を振る。

「いいや、俺はそんなこと考えないよ。フェートくんがあんまりにも考え込んでしまうようだから、何度も考えては振り切って、振り切ったのに考えて立ち止まってって繰り返すから、年長者としては手伝いでもするべきかなあって思っただけ。
 ――俺は、斬るだけだよ」

 フェートは思った。
 強く思った。
 潔志を、潔志こそを、斬ってしまいたい。
 よみがえるのはツァーレの背中を滅多切りにしたときの感触と衝動。
 斬るのだ。
 斬るのだと、もう道を定めているのに、何度も後ろ髪を引くのは潔志と出会う前の全て。
 無知の罪悪を積み重ね続けてきた全て。
 けれど、フェートのバリオルの罪に鋒突きつけた潔志の存在は、なに、だ?
 斬るのだと、斬撃を謳う。
 斬られたものは、どうなった?
 いいや、違うのだ。分かっているのだ。
 潔志が斬ったものたちは皆、バリオルの目から見れば「裁かれて当然」のものたちで、神子に裁いてほしいと願ったのはバリオルたちで、潔志に疑問を抱くのはお門違いなのだと、フェートは分かっている。
 ただ、分かって良いのか、と思う。
 聞き分け良く、納得して良いのかと思う。
 それは潔志と出会う前の己となにが違うのだろうか。
 潔志が微笑む。
 仕方のないものを見るように、穏やかな微苦笑を浮かべる。
 さくり、と雪を踏んでフェートの目の前にしゃがみ、剣を持たぬ腕でやさしく、力強くフェートを抱き締めた。

「大丈夫、フェートくんはフェートくんの道を歩けるよ。最初に言ったじゃない」
「……え?」
「俺は帰るけど、ちゃんとその言葉は守るよ」

 潔志がなんのことを、どれのことを言っているのかフェートには分からなかったけれど、慈しみに満ちた導くものの声音に迷い、悩み、苦悶するフェートの心は慰撫されていく。
 潔志の肩越しに雪の上に横たわる女児が見える。
 放置すれば凍死するだろう。
 だが、助けることは女児にとって救いになるのだろうか。
 若すぎる、まだ幼いと言ってもいい体に壊れた心を持つ女児。

「潔志さん……」
「なあに」
「……あの少女の様になにも……いいえ、あの様を、どう思われますか……」

 潔志は己が発狂させて廃人にした女児に対して、どういう認識を持っているのか。

「斬れてるなあって思うよ」
「……惨い様とは思われませんか」
「斬るつもりはなかったけど、斬ったのだから斬れるよね」

 フェートは強く瞼を閉ざす。

「もし、もしもあの少女が……たとえば周囲の……バリオルからの迫害によって廃人となったとしたら、潔志さんはどう思われますか?」
「酷いことだと思うよ。こどもは大切なものなのに、どうしてって悲しくなるだろうね」
「……魔族からの虐待であの様になったのであれば?」
「酷いことだと思うよ。ひとは己の下に誰かを置きたくなる生き物らしいから、虐げられる魔族が自分たちのなかから更にはけ口を作ったとしてもおかしくないけど……あんまりな想像だな。やっぱり悲しいことだよ」

 フェートはようやく飲み込んだ。
 斬撃だ。
 斬撃なのだ。
 潔志は始まるも終わるもなく、ただ斬るのだ。
 潔志自身が斬るのだ。
 潔志自身が斬撃なのだ。
 ならば、斬って、斬られて、その前後過程全ては「斬る」か「斬っている」か「斬った」しかないのは当然だ。
 フェートはようやく、ようやく飲み込んだ。
 喉が焼け爛れ、胃の腑が腐り落ちそうな現実を飲み込んだ。
 ――神子など何処にもいない。

(けれど、貴方に感謝します。神子の役目を負って、此処まで、この先まで進んでくださる方を、私は、私たちは求め、願ったのだから)

 フェートは潔志の胸に手を置いて立ち上がると、見上げてくる彼を振り返らずに女児のもとへ向かう。
 構えた小剣。
 此処まで辿り着く前に、もっと、もっともっと斬っていれば、なにか変わっていただろうか。
 詮無いことだ、とフェートは自嘲して、小剣を振り下ろした。



 ――しかし、フェートは瞼を開くのが遅すぎたのだ。

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あきゅろす。
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