小説
十六話



「無事っ? 水は飲んでいない? 怪我はっ?」

 ぱたぱたとベルの顔に、体に触れて確認する男。
 男の勢いにベルは返事をしようとして微かに咳き込めば、男はすぐさまベルの背中を撫で擦った。
 喉が引っかかるような心地を堪え、ベルはようよう男に返事をする。

「問題ありません。正常です。働けます」

 己の機能になんら異常がないことを伝えれば、男はベルが見たこともない顔をして、それから無言でベルの枷から伸びる鎖へ手を伸ばした。
 一瞬で凍りついた鎖の一部は、音を立てて砕ける。
 異能。
 その意味するところにベルが男を見つめようとすると、頭から男の上着を被せられた。
 なにか知らない、とても好い香りがして、それがようやく司祭が神事の際に焚く香の類と似ていることに気づくけれど、ベルには同じものとはとても思えない。
 だって、神事の香になどベルはなんの感慨も覚えたことがないのだ。

「風邪を引くわ。お湯と……温かいご飯が必要ね」

 抱き上げられて再び感じる温度と、何故か震えていた声。
 男の話し方はベルの知っているものとは異なり、女のようであった。
 男と思っていたが、女なのかもしれない。
 そうでなくとも、女として接したほうが喜ぶのかもしれない。
 バリオルの機嫌を窺うのと違って、ベルは男の感情を慮る己に心底戸惑い次第に考えることにも疲れてぼうっとしてしまった。
 ぼんやりと身を任せるベルを抱いたまま歩く男……彼女が教会へ戻ると、そこにはバリオルの霜がかかった死体たち。
 彼女はなにも言わないし、ベルもなにも言わない。
 手早く用意された湯を使うのは滅多にないため戸惑い遅くなったが、顔を出したベルに彼女は怒るどころが微笑みを浮かべて、テーブルに食器を置いた。
 ふわふわと湯気を立てるなにか暖かそうなもの。
 ふんわり香るのは甘い匂い。

「パン粥よ。こちらではこういうのが一般的と聞いたのだけど、違ったかしら?」

 窺う彼女に、ベルはなんと言えば良いのか分からなかった。
 体調を崩した誰かに、パン粥と呼ばれるものを作って運ぶ習慣があるのは知っていた。
 けれど、それはベルではない誰かの話であり、一般的のなかに己が入っているとは考え難かったのだ。
 彼女は黙り込むベルに「色々な種類があるらしいわね」と言い、冷めないうちに食べてほしいと言った。
 戸惑うベルであったが彼女に椅子を引かれたので座ると意を決して匙へ手を伸ばす。
 パン粥は、とろとろと甘かった。
 暖かくて、甘くて、ベルの知らないものだった。
 ベルは匙を置いて、彼女を見上げる。
 向かいで茶を飲んでいた彼女は「ん?」と首を傾げる。
 その表情も知らないものだった。
 彼女は、彼女がベルに与えたものは、やさしい、であった。
 そして、パン粥を食べ終えたベルを寝かしつけた翌日、教会を出て一緒に行こうと手を差し出す朝日のなかに立つ彼女。
 それは、うつくしいであったのだ。
 暖かで、眩くて、うつくしくて……差し出された手に手を伸ばそうとする「ベル」は「聴いた」
 斬り、という音色を。
 血の気がざっと引くように、急速にベルは寒気を覚える。
 無色で、無味で、乾燥したベルの決して長くない生涯のなか、唯一大切で、もっとも尊い記憶に入れられようとする刃。

 斬り。

「なんで」

 斬り。

「どうして」

 斬り、斬り。

「それは」

 斬り斬り斬り斬り斬り。

「お前は……ッ」

 抗うように握りしめた拳。踏みしめた足。
 全身全霊を込めて、たとえこの拳ごと我が身が砕けても構うまいと振るい上げた瞬間――斬撃がわらう。
 
 斬と一閃。

 斬られていく。
 捨てられていく。
 やさしい全て。
 眩い朝日のなかに立つ朱牡丹。
 伸ばされた手。
 伸ばした手。
 あのとき、確かに重なった手が斬り裂かれる。
 あのとき、確かに感じた温度が斬り裂かれる。
 あのときから、確かに続いていた現在が、斬り裂かれる。

「やだ……ッッヤダ!! やだやだヤダヤダヤダ嫌アァァッッ!!! 返して返して返して返して返して……っ! それ、それベルの、ベルの大事な……ベルの宝物斬っちゃヤダよおぉッッ!!!!」

 斬り、斬り、斬り、斬り。
 凛と透明な不協和音が無数に反響して、斬り刻んでいく。
 細斬れに、賽の目に、膾に、微塵に斬り刻まれて元の形を喪っていく。
 もう戻らない。
 もう取り戻せない。
 もう思い出すこともできない。
 だって、斬り捨てられて、何処にも存在しない。
 うつくしいひとのうつくしい笑みが、斬り裂かれて見えない。
 うつくしい、うつくしかった、うつくしいというナニカ。
 ナニカがあった。
 ナニカがあったはずだった。
 ナニカがあったような気がした。
 ナニカとは、何であったのだろう。
 ナニカが斬られて、ナニカに根ざして広げていた枝葉が全て枯れ果て、もう何も残らない。
 ベルには、もうなにもない。

「あ、あぁ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!!!!」

 引き攣れて潰れて裏返ったような奇妙な声で上げられた絶叫。
 ごぶごぶと吐瀉物を口からのみといわず鼻からも噴き出し、べしゃりと座り込んだまま失禁したベルは、ふっと目を遠く虚ろへ彷徨わすとそのまま横倒しに倒れた。
 吐瀉物に濡れた開きっぱなしの唇から涎を垂れ流し、絶叫を止めた喉から空気が漏れるように「ぇう」と声が溢れてそれっきり。
 理知とともに尊厳を失った姿がそこにあった。
 大切なものを全て喪った末路が、そこにあった。

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あきゅろす。
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