小説
十五話
胃酸がこみ上げ、食道を喉頭を灼いて吐き出される。
鼻を饐えた臭いが通り抜け、しかし気にする余裕もなく繰り返される嘔吐。
系譜名を聞いた。
潔志は確かに、確かに神子などではなかった。
知らぬ響き。
いいや、それ以前の問題だ。
神子であって堪るか。
バリオルに対して冷え切った視線を送っておきながら、神子という存在になにがしかの期待に似たものを持っていたわけではない。
系譜名を通して知った潔志という存在そのものが、ベルには堪え難かった!
おぞましい。
気持ち悪い。
なんだこれは、なんなのだこいつは!
こんなものが存在していいはずがない。
どうしてこんなものが存在していられる。
凄まじい耳鳴りがした。
呪詛のような、しかし透明無垢な硬い音色。
それが次第に音を変え、ベルの脳髄を抉っていく。
違う。
斬り裂かれていく。
鮮烈で、冷たい一瞬の熱。
音がする。
聴きたくないのに聴こえてしまう。
近づいてくる。いいや、近づいていくのか。
きり。
音が、する。
きりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきり。
――斬り。
斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り。
音色の先に、斬撃が「いた」
瞬間、ベルの脳裏をぐるぐると凄まじい速度で「記憶」が巡りだす。
いいや、記憶などと冷たい言葉で片付けるようなものではない。
存在を徹底して否定されてきたベルという存在の生涯で、ただひとつ、暖かなもの。眩いもの。
うつくしいひと。
ベルが朱牡丹と出会ったのは、朱牡丹が情報を集めるためにベルが畜生の扱いを受けていた教会を訪れたときである。そのとき、ベルは「ベル」という名前を持っていなかった。
ベルはその頃、頭を丸刈りにされて幾ばくもなかったため、髪がないだけで随分と寒く感じるものだなあ、と思いながら粗布を頭から被って眠るのが習慣であった。
当然のこと、満足な食事もないためやせ細った体でもベルの全身を覆えることはなく、太ももの中ほどから下は必死に丸めてもはみ出すのが常なのだ。
そんな生活でも問題なく駆け回れる体こそがベルの魔族たる所以であり、その異常な膂力を恐れたバリオルによってベルは傭兵の補助に連れ出されるとき以外は鎖と枷と重しが両手足に繋がれていた。
補助といえば聞こえの良い、運悪く、あるいは運良く死んでくれないかという意図の見え隠れする仕事はむしろ楽だった。
ただ、あまり平然としていれば増々周囲はベルを疎ましく思うようであったので、相手や場面によって言動、振る舞いを変える癖が付き、傍目には随分個性的なこどもに映ったことだろう。
逆に大変なのは掃除洗濯、炊事の手伝いだ。
傭兵の補助から戻れば枷を付けられるため、ベルはいつも難儀していたのだ。
特に、水汲みをするのが最悪だった。
重しのせいで川の水を桶で掬うのには緊張したし、それは井戸だって同じこと。いくらベルでも重し付きで水の中に沈みたくなどはない。
けれども、自身の生活とはこういうものであるため、ベルは日々に文句を言うこともなく生きていた。
食事をして排泄して睡眠をとって呼吸をしていたのだ。
教会の司祭のもとへ見慣れぬ男がやってきたときも、ベルは大して思うことはなかった。
ただ、バリオルが花や絵を見て言う「うつくしい」とは、あの男以外に向けるべきではないのではないだろうか、とやはりバリオルが、人間が理解ができないばかりで、そんな己を恥じたのだ。
ベルは男と接する機会がなかった。
外からひとが来たときはいつものことである。
ベルのような存在は奥に隠してしまいたくなるものなのだ。
いつも以上に喋るな、物音を立てるなと言われたので、水汲みへ行くときもそっと気配を殺していた。
それなのに、時折どうしても男の近くを通らなくてはいけないときに感じる視線。
男の視線はベルにとって感じたことのないものだったが、それがどういうものなのかを判断することはできなかったし、まして男の視線に応えることもベルには許されていないので、いつもそそくさとその場から去るばかりであった。
変わることのない日々の変化は、唐突に訪れる。
その日もベルは水汲みに川へ向かっていたのだが、予想外の出来事が一つ。
夜中に降った雨が地面を濡らしていて、足を取られたベルがよろけてしまったこと。
その程度は幾らでも立て直せる。
けれど、ベルには重しがあった。
よろけた勢いに乗って滑った重しは川底へ、ベルを引きずり込んでいく。
突然のことに慌て、必死にもがくけれど鎖によって重しに繋がれたベルはどんどん沈んで水面に手を出すのがやっとであった。
ばたばたと藻掻いてもどうにもならない。川べりに手を掛けようとしても、土が崩れてそれもできなくなった。
苦しさのなかでベルはふと考える。
水の中と外、いったい何が違うだろう。
ベル自身にはどうにもならないことで足掻こうとしても、それは何にも響かない。
ならば、別にもう抵抗する必要などないのではないだろうか。
そも、望まれず産まれたベルが、どうして望んで生きているだろう。
どうでもよかったのだ。
己の境遇も、バリオルもどうでもいい。
思うことがないのに、行動など起こす必要はない。
生きたいと思ってもいないのに、抵抗する必要がない。
ベルは水面を見上げ、伸ばしていた手を引こうとした。
突如、歪んだ水面。
水面から伸びた手がベルの手を掴んで引き上げる。
重しがあったけれど、ベルは水の中でなければ腕が引っこ抜けてしまうのではないかと思うほどの力で無理やりに引き上げられた。
全身が川べりへ上がって、直後ベルはとても暖かなものに抱き締められる。
温度に瞠目するも、それはすぐに離れて、ベルの目の前には正に血相を変えたと表現するのに相応しい、あの男がいた。
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